若女将として働こうとするトランスジェンダーの息子と母親の戦いの結末は……田中兆子『あとを継ぐひと』の描く責任と希望

まだまだ以前のような生活を取り戻せない今、本を手に取るチャンスかもしれません。今回杉江松恋さんがオススメしてくれたのは、田中兆子「あとを継ぐひと」。6つの職業現場を舞台に、新しい時代の働き方、暮らし方、生き方を見つめる仕事小説集です。社会に理不尽さを感じる人こそ読むべき理由とは?

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短篇のベスト5には必ず入る「若女将になりたい!」

――あの当時の万純は、自分を女だと意識したことはほとんどなく、これから先も、自分は男と対等に戦えるものだと思っていた。
この世界に〈ガラスの天井〉は、ある。
ないと思っている人もいるかもしれないが、あると実感している人は間違いなくいる。
4年前のアメリカ大統領選で、民主党候補のヒラリー・クリントンが共和党のドナルド・トランプに敗北したときに、この言葉も注目されることになった。女性に代表される少数派には社会的な地位の見えない上限が定められているという意味だ。どんなに能力があっても、どんなに努力をしても。

冒頭に引用した文章は、田中兆子『あとを継ぐひと』(光文社)に収録された「女社長の結婚」という短篇の一節だ。
主人公の万純は昔ながらの麩菓子を造る〈花村製菓〉の社長だ。先代だった父が体調を崩したため、志願して自分が後を継いだ。考えることは、日がな一日会社のことばかり。そのため、つきあいのつもりで受けた見合いでも先方から断られてしまう。理由は万純が「プライベートでも社長だから」。だって仕方がないのだ。責任ある立場、社長なのだもの。

「女社長の結婚」の主人公は、万純と二歳下の幼なじみ・翔太だ。二人が出会ったのはジュニアサッカーチームだった。それまでどんな男子にも負けたことのなかった万純は、翔太に初めて敗北した。後に海外のサッカーチームに在籍することになる翔太には天性の才能があり、また人一倍の努力家だったのである。
仕事では誰にも負けたくないという万純の思いと、でも個人としての幸せもやはり欲しいという気持ちを、ふんわりとした恋愛物語に仕上げた優しい小説だ。主人公の女性を〈ガラスの天井〉の上を目指すのではなく、責任ある立場として会社を背負う立場にした点が、田中兆子の平衡感覚の優れたところである。仕事をして生きていくことについての物語が、「女社長の結婚」も含めて全6篇収録されている。
お薦めは、「若女将になりたい!」である。これがすごくいい。2019年に小説誌に発表された短篇のベスト5には必ず入る小説だ。

女性の服装で働こうとする範之

主人公の神原範之は、広島県・鞆の浦の老舗旅館「潮待閣」経営者の長男だ。27歳の彼が実家に戻ったとき、女将である母・千代は仰天した。範之が女性として、若女将として跡を継ぎたいと言ったからである。彼は自分がMtF、つまり男性から女性のトランスジェンダーだということを宣言したのだ。あくまでも女性の服装で働こうとする範之と、それを認めない母親との長く、冷たい闘いが始まる。
途中で範之に注目したテレビ局から取材依頼を受ける展開がある。そのことを旅館の社長である父・春夫に相談したが、答えは不可だった。感情的になる範之を春男はこう諭す。
「ノリがテレビに出ることで、『潮待閣』は、ノリのような人たちに対して理解がある旅館だと思う人がおるかもしれん。でも、もしそういう人たちがお客様として来てくれちゃっても、うちはまだ、ハードの面でもソフトの面でも、受け入れられる体制が整っとらん[……]」
つまり、頭ごなしの否定ではなくて、現実を見ろということなのだ。こんな風に年長者と若い世代との意見がぶつかりあう場面がどの収録作でも描かれる。そこが、いい。現実には、こんな理解ある上の世代ばかりじゃないと思うのだけど、小説だからいいのだ。
実は、この理解ある春夫は実の父ではなく、範之は現在冷戦中の母・千代の連れ子なのである。そうやって、家族の形もひとつではなく多様性があるということをさりげなく書くところがまた、いいんだよなあ。田中兆子は上手い。

不公平かつ理不尽な社会に向けて

「女による女のためのR-18文学賞」をご存じだろうか。現代社会で生きる女性を、性という切り口から短篇を募集する賞で、応募資格があるのは女性だけである。これまで窪美澄をはじめ錚々たる作家を輩出しているが、田中はその第10回の受賞者である。出産の問題を尖鋭的に扱って話題になった『徴産制』、男の身勝手さを尖った笑いで描いた『私のことならほっといて』(ともに新潮社)などの過去作もいいので、これを機にご一読を。ちなみに2019年に刊行された短篇集の五指に入る良作、清水裕貴『ここは夜の水のほとり』(新潮社)も「女による女のためのR-18文学賞」から生まれた作品なので、これもぜひ。

その他の収録作では、唯一の書き下ろし短篇「わが社のマニュアル」がお気に入りだ。知的障碍者雇用を積極的に行う会社に入った男性・翼が主人公で、この社会には立場の違う人たちがたくさんいて、それぞれの居場所を持っていることについての小説だ。慣れない環境に戸惑う翼に先輩社員が「べつに失敗したっていいんじゃないの?」「相手のことを知るって、人から聞いて知ったかぶりするんじゃなくて、じかに交わることで、いろいろ失敗したり、自分であれこれ悩みながらだんだんわかっていくもんじゃない?」と語りかける場面をぜひ読んでもらいたい。全般的にこの本、突っ張った肩ひじを、まあまあ、とほどかしてくれるようなところがあって、当たりが柔らかいのである。

その他、男手一つで子供を育ててきたことを誇りに思っている父親が主人公だけど、親しい女性の友人からの自分評が「プライドばっか高い、ええ格好しいの意地焼けっちまう野郎」で別れた妻には「たまたま、肝っ玉の小さい男に当たって失敗した」であることを知ってぎゃふんとなる「後継ぎのない理髪店」だとか、自分にはない冒険をしようとしている息子を「もし庸平に嫉妬を感じているならば、後継者になるということではなく、彼が未来そのものであること、彼の持つまぶしい若さや可能性への嫉妬だろう」と眩しく見る「親子三代」とか、父親が悩みを抱えている娘にどう話しかけていいかわからずにもじもじする「サラリーマンの父と娘」だとか、おやじ視点の話も三つ入っている。

不公平かつ理不尽な社会がこれからすぐに変わるということはないだろうけど、ちゃんと立ち向かっていけば、少なくとも話はできるようになるんだな、と思わせてくれる一冊だった。『あとを継ぐひと』という題名なのだから、後継者が欲しい世代の人も読んだらいいんじゃないのかな。

「あとを継ぐひと」

著者:田中兆子

出版社:光文社
価格:1,760円(税込み)

1968年東京都生まれ。ライター。書評を中心に活動。旧街道歩きやや落語、講談、浪曲などの古典芸能に強い関心がある。著書に『路地裏の迷宮踏査』、『ある日うっかりPTA』ほか。その他、神田伯山の半生記『絶滅危惧職、講談師を生きる』(新潮社)など共著も多数。