映画『寝ても覚めても』を再び観てわかった「ふたり」の真相

連日、テレビや新聞、雑誌をにぎわす2人の俳優がいます。彼らが出会ったのは2年前に公開された映画『寝ても覚めても』。しかし、今語られているのは映画の内容や彼らの演技の良し悪しではなく、2人のゴシップばかり。今回のニュースを見聞きした上で、あらためて『寝ても覚めても』を鑑賞し、2人の間に流れていた作中の異質な空気感について考察しました。

「渦中」の2人、東出昌大と唐田えりかは、映画『寝ても覚めても』で出会い、仲を深めたといいます。私はこのニュースを聞いて、2018年に立川の映画館で観た『寝ても覚めても』で2人が醸し出していた異質な空気感を思い出しました。

もともと『寝ても覚めても』という作品は、物語の「外」に2人を放つ力を宿していたのかもしれません。
東出と唐田の現実の恋愛は、この作品の持っていた「構造と力」をよりどころにしている―そう仮定して、この映画を再び観賞した時、はたして何が浮かび上がってくるか。 そこを出発点にして『寝ても覚めても』を見直したのです。

つまり私が仮定するのは、妻帯者の俳優と未成年の女優が出演作品をきっかけに出会い、現実世界でも恋愛するに至った―そうしたおざなりなスキャンダルやゴシップではありません。

役者は映画の「外」に出られるか?

まず簡単に『寝ても覚めても』のあらすじを大ざっぱにご紹介します。
表向きはきわめてシンプルな筋立てです。

 

東京へ移住したばかりの泉谷朝子(唐田えりか)は仕事先で、かつて恋人だった男・鳥居麦(東出昌大)によく似たサラリーマン・丸子亮平(東出昌大)と出会う。
2人は交際し、ともに暮らすことを決意するのだが、ある日、朝子は東京でモデルを始めた麦と再び遭遇し、その心は再び麦へ動き始める。

 

本作の主演女優・唐田えりかは、作中で明らかに「浮いて」いるように見えます。
その「浮き具合」を知るには、本作を観賞してもらうよりほかないのですが、彼女の演技を「大根」「素人」などと揶揄する意見は映画レビューでずいぶんと散見されました。「あれは初心な俳優がデビューした時にしか現れない、その資質を超えた奇跡的な演技である」などと批評家ぶって述べることもできるでしょう。

ただ、唐田えりかの演技のどこまでが監督に要請されたものなのか、どこまでが彼女の「素」に由来するのかを判断することはできません。
ひとつ言えることは、彼女の奇妙な存在感は、この映画の持つ主題と「完璧に呼応している」ということです。
その定まらない目線やふらふらとした挙動、居心地の悪そうな表情はこの映画の持っている虚構性や違和感から飛び出そうとしているような、作品世界をいつでもぶち壊しにしてしまいそうな、危うい空気をまとっています。

その空気は、本作でも描かれた「東日本大震災」以降、何故かここに「生き残ってしまった」私たちの理不尽さや所在なさとも地続きであるようにも思えてきます。

本作における唐田えりかは「職業的俳優」ではなかったのかもしれません。
俳優は「演技」という職業的技術で、映画内と現実世界を自在に「行き来」することができます。むしろ、それができなればプロの俳優とはいえないでしょう。

『寝ても覚めても』という作品が唐田えりかに求めたのは、東出昌大演じる鳥居麦と「寝ても覚めても覚めぬ」恋へと落ちることでした。
彼女はそんな本作の主題に対して、あまりにも誠実だったとは言えないでしょうか。もっと言えば、「誠実すぎた」のかもしれません。
唐田えりかは、東出昌大演じる丸子亮平の手を握って「物語の内」から外へ、すなわちこの現実世界へと踏み出してしまったように私には感じられました。

 

「狭間」を超える

『寝ても覚めても』が描いていたのは、現世の「色恋沙汰」ではありません。それは「生と死の狭間」で揺れる存在の有り様でした。
作中の(ある次元において)鳥居麦はとうに死んでいました。泉谷朝子は現実に身を置くことができず、鳥居麦の帰還を「寝ても覚めても」待ち続けていたのです。
念願かなって、彼女はついに麦と再会し、1度は「そこ」へ行きかけて、瀬戸際で現世に戻ってくることを決意します。

唐田えりかはこの物語が終わっても(覚めても)、彼の手を離しませんでした。人々が「不倫」「醜聞」と揶揄していたのは、泉谷朝子と丸子亮平だったのだと私は思います。

私は『寝ても覚めても』を、ゴシップとは関係なく忘れることはないでしょう。本作には生と死、現実と虚構の狭間のようなものが描かれていて、たとえ2人の恋愛が終わっても、ここには物語だけが持ち得る「現実を凌駕する力」が残ると信じています。