【Dr.尾池の奇妙な考察22】エロの知性
Dr.尾池の奇妙な考察 22
えろい人とえらそうな人
私は自分をえろいと思ったことはあっても、えらいと思ったことはありません。しかし時々、自分をえらいと思い込んでいる人に出くわすことがあります。そうした方々には分かりやすい共通点があり、なぜか自分は「分かっている」と思い込んでいます。
分かっていると思い込んでいるので威勢はいいですが、分かっているのはほんの一側面だけにすぎません。しかも他の側面を分かろうとしないために少ない知識が増えることはありません。論理が単純なため言い換えが無限で、立て板に流すように同じ主張を繰り返します。口をつむぐ者が多くなり、得意になりやすいのですが、新しい価値観には対応できないため、反論されると激高します。
彼らにとって魅力的なファッションやメイクは男性の性的欲求をいたずらに高めてしまうものであり、性犯罪を招くから、女性の服装は管理しなければならない。どうすれば女性というやっかいな性をコントロールできるのか。彼らは頭を抱えます。まさかいやらしいのは他でもない、ファッションやメイクをそのようにしか理解できない自分自身であるとは知らずに。
その点私は自分のことをえろいと自覚しておりますから、女性を見ていやらしい気持ちになれば、私はいやらしいなと思うだけです。その女性がどのようなファッションをしようとも、それが私に向けたものだと思うほど自惚れておりません。私はいつも着たい服を自由に着たいと思っておりますから、女性も着たい服を着られなかったら嫌だろうなと思います。
なんでしょうか、この絶望的なほど低レベルな世界は。車を盗まれるのは、魅力的な車を作った方にも責任がある社会など、恥ずかしくて次世代に引き継げない。
イッツ・ア・一面ワールド
えらそうな人たちが私たちを引きずり込むこの低レベルな世界は「一面ワールド」と呼ぶことができます。女性のファッションが男性の性欲を高める。なぜかその一面だけをことさらに強調する一面ワールド。
前々回の「生はなぜ気持ちいいのか」でも同じような風景を垣間見ることができました。記事公開後、「すばらしい」「愛の話」、さらには「名文」と過分な評価をいただくことができましたが、同時に「下品」「バカ」「釣り記事」という真逆のコメントもたくさんいただきました。
反応が両極端に分かれてしまうのは「生」という下ネタが持つ多面性によるものです。お褒めの言葉は、下ネタに盛り込んだ思いやりという多面的なテーマを読み取っていただいた結果でした。後者の罵倒は、下ネタは下品であるという一面だけを前提に斜め読みした結果です。下ネタから気づきが得られるという多面性を楽しむ人がいる一方で、下ネタを性的な一面からしか受け取らない人もいます。
物事の多面性に気が付かない場合、もっとも印象的な一面だけで決めつけてしまいがちです。たとえば光は直進性が目に見えて分かりやすく、そこから「粒子が飛んでいる」という巨大な一面だけが強調されます。そのため、光は同時に波でもあるという二面性に気づくのには大変な時間がかかりました。また物質が+か-というデジタルな二面性からなるという反物質のアイデアはポール・ディラックという天才の登場を待つしかありませんでした。
一面しか見ない人は下ネタを性欲の面からしか捉えません。性的な面が最も印象的だからです。そしてそれを正義に直結させ、やがてそれは、えらそうな人たちの武器になります。「ミニスカートを許すだと?性犯罪を許すというのか!」と。世界は一面ワールドでガチガチに凝り固まり、えらそうな人が説得力を獲得します。
性の知性
えらそうな人が魅力的なファッションの性的な一面を突くのも、性的な一面が最もインパクトがあるからです。そこに集中さえしておけば、他の面に目が届かなくなる。彼が君臨する一面ワールドは安泰です。
一面性で単純な論理は分かりやすい。分かりやすいだけに繰り返し聞かされると、誰しもが、たしかに魅力的な女性にも性犯罪の一因があるような気がしてきます。女性の安全のためと言われれば、その思い込みに対抗できる説得力はもはや見当たらないような気がしてきます。
しかし私は、この局面において強く思います。
まさにここが、人類の知性の見せどころだと。
人類の知性は、性においてもっとも試される。
ファッションにおける性的な一面はたしかに巨大であり、それは他の面を覆い隠してしまうほどです。しかしそれほどに巨大な一面を持つからこそ、性は多面性を見せつける最も最適な材料と言えます。多面性を訴える時、性を避けて通るのはもったいない。むしろ、性においてこそ多面性を訴えるべきです。
性欲は相手によっても、時代によっても、多面的に変化します。公序良俗も時代と共に変化する単なる「示し合わせ」にすぎません。喜び、思いやり、協力、生命、愛。下品であることに目を奪われてタブー視するのはもったいない。
ファッションもメイクも単なる飾りから、自己実現の手段になりつつあります。それは身だしなみでもあり、社会的外見の獲得でもあり、傷やあざのカバーメイクでもある。メイクのおかげで自信を取り戻す女性もいれば、整形外科を選ばずに済む女性もいます。
魅力的な表現を性欲に直結させる社会と、魅力的な表現でお互いの飛躍を支え合う社会。どちらがいいかと問われれば、えろい人だろうが、えらくなりたい人だろうが、答えは一つなはずです。なぜなら、魅力的な人がいない社会など誰も望んではいないからです。
今回のまとめ
えらそうな人が魅力的なファッションを性欲に直結させるのは、そこに集中さえしておけば、他の面に目が届かなくなるからです。世界は一面ワールドでガチガチに凝り固まり、えらそうな人は説得力を獲得します。この一面ワールドを打ち崩す材料こそが、同じく性の持つ多面性です。喜び、思いやり、協力、生命、愛。下品であることに目を奪われてタブー視するのはあまりにももったいない。魅力的な表現を性欲に直結させず、多様性を支え合う手段にできる社会はもうすぐそこです。
<尾池博士の所感>
えろい社会は結局来なかったけど、もっと魅力的な社会が待ってた。