【Dr.尾池の奇妙な考察 23】時にはパンツのように
●Dr.尾池の奇妙な考察 23
パンツをはく理由
一日が終わり、自宅のバスルームで服を脱ぐとき、思うことがあります。私はなぜ、これを着るのだろうか、と。そしてズボンを脱いだ後、パンツに手をかけてもう一度思います。私は一体なぜ、ズボンの下にさらにこれを履いているのだろうか、と。
中学生の夏、私は水泳の授業で水泳パンツに履き替えるのがめんどくさいので朝自宅で履いて学校に行っていました。ですのでしばしば、着替えのパンツを持っていくのを忘れていました。時々、ではなく、しばしば。そのため泳ぎ終わってから教室でカバンを一応漁った後、ノーパンでズボンを履いていました。ですので一時あだ名が「ノパン三世」でした。つまり私はパンツにあまり執着心がなかったのです。パンツ? いや、別になくてもいいんじゃないか、とさえ思っていました。だからいまだに不思議に思います。なぜパンツをはいて、その上にさらにズボンを履かなければならないのか。
パンツは下着だから当然だ、という理由は成り立ちません。少なくとも私には。なぜなら夏はTシャツ一枚だからです。私にとってTシャツ一枚と下着一枚にはあまり差がありません。だから下もズボン一枚でいいんじゃないかと思います。誤解を避けるために付け加えると、スカートならば私も必ずパンツを履きます。さすがにスカートは無防備すぎるからです。しかしズボンであれば一枚でいいと思います。
ズボンが直接蒸れたら不潔だという意見もあるかもしれません。しかし逆にズボン一枚なら蒸れないかもしれない。いや、私の経験上、蒸れません。ズボン一枚の方が風通しが良く、むしろ清潔かもしれない。唯一問題だったのは、ジッパーの金具部分が冷たかったことですが、これも生物学上は正解かもしれません。睾丸は体温よりも1~2度下げなければ精子の生産能力が落ちるからです。風通しを良くして、かつ金属の熱伝導で温度を下げる。いいことずくめです。
しかしそれでもやはり、私はパンツを履いています。それはなぜか。実はそれには、私自身長年気が付かなかった理由があったのです。
パンツのオンオフ
私の小さな頃(1970年代)、男は黙ってサッポロビールというCMがありました。私も大好きなCMでした。その頃はまだまだ男は寡黙が美徳で、背中で語るとか、背(せな)で断ち切る、とか言われていました。特に九州だったのでその傾向が強く、「男はふろ、めし、ねるで十分」などと今からすると極端な美意識すらありました。しかしその頃から子供心にすでに感じていました。その寡黙な背中が逆にうるさい、と。本人は黙ってて楽なのかもしれないし、かっこいいと感じているのかもしれないけれど、つまるところ「お察しください」の文化ですから、実はその背中から様々な主張を発信している。それに何とか気づいてあげれば「阿吽の呼吸」とか「以心伝心」とかもてはやされますが、口で言えば一言で済むところを、なぜか「背中」で語ろうとする。見ている方としては、この背中がけっこううるさい。結局、寡黙でも何でもないのです。
それからずいぶん経ち、平成の世となり、ある時ふと鏡に映ったパンツを見て思いました。あの背中よりも、このパンツこそいさぎよい、と。パンツもあの頃の背中に劣らず、自己主張は強い。しかしいざという時以外はズボンの向こうに隠れています。ズボンを見れば、その向こうにパンツがあり、さらにその向こうに大事なモノが隠れていることはすぐに分かるので、実質は完全に隠れているわけではありませんが、しかしその主張を奥ゆかしく隠しています。
あの背中のうるささは、背中に責任はありません。背中を使いこなしていなかった人間に責任があります。「お察しください」と主張している背中をいつまでも見せつけて、お察しできない側を責める。そういえばあの頃も本当にかっこいい人はいたような気がします。いまから思えばその人たちは背中をオンオフしていました。同じように寡黙で、背中も見た目は変わらないけれど、周囲に気を遣わせることはなかった。しかしいざというときの背中には明確な主張がありました。
理想のパンツ
パンツは大事なモノを覆い隠し、大事なモノを主張しつつも、その主張をズボンでオンオフしています。普段はズボンを通して、なんだか大事なモノが隠されてそう、くらいの奥ゆかしい主張しか感じさせません。一種の趣であり、生活の華ともいえます。周囲はその存在に気づきつつも、その主張については考慮しなくていいわけです。
しかしいざという時にズボンを脱ぎ、パンツが見えれば、ようやく周囲は、「お、何か始まるぞ」とか、「何か期待しているのか?」と、身構えます。面白いのは、その時点でもなお、大事なモノは見えていないということです。つまりパンツの主張は二段構えなのだ、と気が付きました。
寡黙でなければならない時もあり、激しく主張しなければならない時もあります。計算して行動しなければならない時もあり、その計算がばれてはいけない時があります。主張も、計算も、行動も、オンオフが大事で、主張の強度のコントロールも必要です。計算しない人は無知であり、計算がばれる人は不粋であり、計算がばれないのが大人です。これはまさにパンツに一致します。履いていないのは恥であり、履いているのがばれるのは子供であり、履いているのを見せないのが大人です。パンツこそコミュニケーションの理想形であり、しかも時には笑いまで提供できるスーパーツールでした。
大事なものをいきなりあからさまにすれば、相手をびっくりさせてしまうし、こちらも恥ずかしい。大事なものは隠しつつ、自分が何を伝えたいのか、まずは言葉を尽くす。大事なモノではなく、気持ちの方に熱意を込める。それで伝わったとき、人は奥ゆかしさと気遣いを感じて、共感する。
しかしそれでも伝わらない時がある。すれ違い、ぶつかり合い、どうしても、真意が伝わらない時がある。しかし、今を逃せば伝えるチャンスはもう来ないかもしれない。その時、最後の手段として見せるもの。それがパンツなのだ。大事なモノじゃない。その一歩手前の、パンツ。真意は見せつけるものじゃない。真意は一枚手前でなければ伝わらない。
今回のまとめ
普段はズボンの上から、なんだか大事なモノが隠されていそう、くらいの奥ゆかしい主張しか感じさせないパンツ。周囲はその存在に気づきつつも、気を遣わなくて済む。何か大事なことを伝えたいときも、それをいきなりあからさまにすれば相手はびっくりするし、こちらも恥ずかしい。真意は奥ゆかしく隠し、気持ちと言葉に熱意を込めてこそ、人は気遣いを感じて、共感する。しかしそれでもなお伝わらない時、最後の手段で見せるもの。それがパンツ。大事なモノではない。パンツ。真意は最後まで見せてはならない。真意は一枚手前でなければ伝わらない。
<尾池博士の所感>
パンツになりたい。
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