夫の“入らない”問題はいまや全夫婦共通問題です
●本という贅沢68『夫のちんぽが入らない』(こだま/講談社文庫)
文庫化、ドラマ化、漫画化と、ニュースが続いている『夫のちんぽが入らない』。
すでに触れている人も多いかもしれないけれど、この本は、大学入学と同時に付き合いだした男性と結婚した著者の、実話に基づく物語だ。付き合いはじめたときから、お互いとのみ性行為ができなかった2人は、同じ教員という仕事を続けながら、2人だけの夫婦の形を探していく。
発売当初はそのセンセーショナルなタイトルまわりが話題になっていたけれど、ここにきて、この話はある特殊な夫婦の物語ではなく、とても普遍的な、性と生の物語なのだと、誰もが気づくにいたっている。
だいたいにおいて、夫のちんぽが入らない問題は、夫婦における3大問題のひとつであると、私は思う。
3大問題とは、以下だ。
① お金の問題
② 健康の問題
③ 夫のちんぽが入らない問題
子どもがいない場合は、これに④子どもを作るかどうか問題と、子どもがいる場合は、④子どもの育児(教育)問題が加わる。
著者のこだまさんの場合、物理的に入らなかったわけだけれど、メンタル的に入らなくなる夫婦は、本当にたくさんいる。
仕事がら、女性の話を聞く機会が多いのだけれど、新婚以外の夫婦のざっくりいって、半分は入ってない。もっというと、こだまさんのように、夫のちんぽ「だけ」入らない女性もかなりの割合でいる。
どうして私たちは、最も愛し、最も大切だと思った相手の性が、受け入れられなくなるのだろうか。 そして、メンタル的にちんぽが入らなくなるメカニズムと、子どもを産むのに必要なのがちんぽであることは、相関関係があるのだろうか。きっとあるのだろう。
するかしないか。できるかできないか。
作るか作らないか。産むか産まないか。
これらはとても複雑にからみあっている。
誰が、誰に対して? この主語も目的語も、複雑に入り乱れる。
私はこだまさんの立場になったかもしれない。
私はこだまさんの夫の立場になったかもしれない。
私はこだまさんの母の立場になったかもしれない。
私はこだまさんの生徒の立場になったかもしれない。
どの人たちにも、なりえたし、これからもなりうるかもしれない。
それくらい、性と生の話は、特別であると同時に普遍的だ。
単行本の装丁がとても好きだった私だけれど、今回、文庫版のためのあとがきで、こだまさんがその後の夫婦の話を書かれていたのが、とても染みた。
この、あとがきに書かれているこだまさんの決意こそが、そのまま、この本を読むことの一番の意義につながっている、と感じる。
別に共感しなくていい。 どちらが正しいか白黒つけなくていい。 そういう人も存在する、と知るだけで充分ではないか。 せめて自分と違う選択を頭ごなしに否定しない人間でありたい。
これからも、自分や友人たちの、性と生の話に触れるだろうと思う。
そのたびにきっと、この物語と、この言葉を思い出すことになるだろうと思う。
想像力をたくわえた人でありたい。
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同じく、文庫版あとがきに披露されていた、故雨宮まみさんの感想に鳥肌が立ちました。「一生に一度しか書けない文章だけれど、これはまさにそれなんだけど、それを書いちゃったら終わりかっていうと、書いたらまた次も書ける」
こだまさんの次の作品『ここは、おしまいの地』も読もうと思います。
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それではまた来週水曜日に。