30代独身、家を建てる。お金から人生を振り返る私の“総決算”
FPさんからのダメ出し
先日、生まれて初めて、FPさんの面談を受けた。
きっかけになったのは、2023年にマイホームを建てたこと。本来であれば、家を建てる前にFPさんに相談すべきだし、もっと言えば、家を建てようと思ってから数年は準備期間に充てるべきなのだろう。
しかし、私が家を建てることを思いついたのは、竣工のたった半年前のことだった。ほとんど下調べもせずにローンの契約をし、年末も近いからと住宅ローン控除について調べたところ、12月末時点の借入残高が多ければ多いほど控除額が多くなるという情報を発見。そこから調べれば調べるほどにわからないことが芋づる式に出てきて、パニックになった私は「お金 相談」で検索にヒットしたFP事務所に駆け込んだというわけだ。
面談に至るエピソードだけでも、私の無計画な生き方が露呈してしまうけれど、実際の面談でも生命・医療保険の入り方や、投資信託の仕方、収支のバランスなど、あらゆることを総合的に見直さなければいけないことがわかった。
「できれば、家を建てる前に相談していただきたかったです……」。言葉を選びながらも、そう強く訴えるFPさんを前に、私は黙ってうなだれるしかなかった。けれど、のんきで厚かましい私はこうも思っていた。「これだけ何の知識もないのに、よく今日まで生き延びてきたなぁ」と。
何もかもを“無駄”にした、20代の東京生活
20代の私はと言えば、東京で、今以上にめちゃくちゃな生活を送っていた。
まず、大学を卒業して一般企業に入社したものの、体調不良を理由に半年で辞めることになった。当時はまだ「新卒で入社した会社に3年は勤めるもの」という考え方が主流だった時代。周囲の大人たちに今後の人生を案じられながらも、すぐにどこかの会社で働く気持ちにもなれず、仕事が見つかるまでの間の“つなぎ”としてwebライティングの仕事を始めることにした。
その頃はオウンドメディア黎明期で、経験を積んだライターの数がまだ少なかったこともあり、いつでもフルコミットできる私は、現場の需要にフィットしたのかもしれない。前職の給与と同額の収入を得るまでに3カ月もかからなかった。ほんのお小遣い稼ぎのつもりで始めたライターの仕事が軌道に乗ると、気づけば体調も良くなっていた。無計画な生き方でも何とかなることを知ってしまったのだ。
東京で過ごした20代は、何もかもが刹那的だった。
仕事では瞬間風速が重視され、記事が一時的に話題になっても、1週間も経てば忘れられてしまう。忘れられまいとして記事を量産し続け、1カ月あたり70記事を書くこともあった。
記事の大量生産と帳尻を合わせるように、お金を浪費した。自炊をせずに飲みに行きがてら食事をするので、飲食費は1カ月あたり10万円以上。「仕事を頑張っているし」を言い訳に、美容院やネイルサロン、洋服代、整体、カウンセリングなどの“心身のメンテナンス”にも10万円以上は使っていた。「気分転換」と称して、4年間で6回以上引っ越しをしたために、半年に1度はまとまった金額が飛んでいく。預金口座にはいつも10万円も残っていなかった。
それでいて心配性で、高額な医療保険に入ったり、「いつか家族ができたときのために」と1,000万円以上の死亡保険に加入したりしていた。子どもに遺すことを考えるなら1,000万円では足りないし、葬儀や死後の身辺整理資金のためなら高すぎると今ならわかるが、当時は「想像できる限りの高額」が1,000万円だったのだ。浅はかにも程がある。
特定の恋人ができたこともほとんどない。「彼氏が欲しい」と言いながらも、誰かと本気で関係を築こうとなんてしていなかったのかもしれない。絶対にお付き合いできないような相手に振り回されるほうが楽だった。連絡が来れば、深夜でも早朝でも関係なくタクシーに乗って会いに行って、時間もお金も消費した。持て余した体力を、使い果たすことだけが目的だったかのように。
思えば20代に使った時間も、お金も、すべてが“無駄”だった。けれど、無限の時間を前にして、自分がどう生きていったらいいのかがわからず、当時の私なりにもがいた結果なのだろうとも思う。
そんな刹那的な生活を数年続けて30歳を迎えようというとき、限界が訪れた。
「これから死ぬまで、この生活を続けていくのか」
「何のために生きていけばいいのか」
そうして、実家のある故郷にしばらく身を寄せようと、東京を発つことになったのだ。
“赤字続き”の過去をも抱きしめて
実家では東京からの仕事を請け負いながら、両親以外の誰にも会わず、話さず、自分にとことん向き合った。
「私は何がしたいのか」
「自分にとってどんな生活が心地良いのか」
大学を卒業して安定した会社に入ることまでがゴールだった私にとって、そんなことを考えるのは初めてだった気がする。自分の願望や心地良さを丁寧に拾い集める時間は、贅沢なものだった。
実家に数万円は入れていたけれど、東京での家賃にははるか及ばない。繁華街まで車で30分、21時半には終バスが来てしまうような環境では飲みに行くこともなくなった。人に会うことがないからメンテナンスが少なくて済むような髪型に変え、ネイルサロンに行くのもやめた。服を買うことも少なくなり、整体やカウンセリングに行かずとも心の安定が保てるようになった。その結果、生まれて初めて、預金口座には3桁の貯金ができた。こんなにも安心できる生活が手に入ったのも、生まれて初めてのことだった。
しかし、私の故郷である田舎町では、「30代前半独身で実家暮らしをしている個人事業主の女性」は「キワモノ」か「ワケアリ」に分類される。両親は私との同居を快く受け入れてくれていたが、親の知人にどんなに説明しても「早く自立して結婚しなさいね」と相手にされなかった。このままではいけないと思った。
自分だけの家を建てる
それらを突き詰めた先に思い浮かんだのが、家を持つことだった。
これからの人生で、パートナーができることもあるかもしれない。けれど、20代の頃にお金と時間をどんなに費やしても手に入らなかったものが、この先そう簡単に手に入れられるとも思えない。不確かな期待を持ちたくはなかった。今後、家族ができる将来があるとしたら、その先のことはそのときに考えればいい。
そんな曖昧な未来よりも、自分の力で確かなものを築きたい。そうできれば、これから何が起きても揺るがず、強く生きていける気がした。
自分だけの、安心できる家が欲しい。
そう思ったら、すぐにでも手に入れたかった。こうして無計画に行動してしまうのは20代の頃と何も変わっていない。「家が欲しい」という一心で、食事と睡眠、ちょっとした読書の時間を除いては絶え間なく仕事をするようになり、収入はこれまでの2倍になった。本当に欲しいものが見つかったこと、そのために必死になれる自分がうれしくて夢中になったのだ。最初はFPさんが難色を示すような人生設計だったけれど、「いつか家族ができたときのために」と入っていた死亡保険の解約をして、投資信託を始めることなどによって、最終的にはなんとか貯金を尽かせないかたちで老後までのライフプランを組み直してもらうことができた。
もっと早く知っていれば、とも思うけれども、過去の仮定は未来同様にわからない。息継ぎをするようにお金を浪費してでも、今日までバトンを渡してくれた自分がいなければ、未来を考えることすらできなかったはずだから。実際に、地方にいながらにして安定して仕事ができているのは、東京時代のご縁のおかげだ。
この2023年末、お金をきっかけにして、社会人になってから十数年の棚卸しをすることができた。“赤字”続きの過去を清算した今、まっさらな気持ちが心地良い。
今年は家具がまだほとんどない我が家に、新しい机を迎えたいと思っている。ひとめぼれした机の値段はひと月の収入と同じくらいと、ちょっと背伸びすれば手が届く値段だ。けれど、未来を取り崩さないように、身の丈に合う範囲で、自分の思い描く生活を少しずつ実現していきたい。それが生まれ変わった私の、新たな目標だ。
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