婚約から入籍まで7年。“長い春”の理由は14歳差フィアンセの白血病
【今回の大人婚さん】Aさん 結婚時の年齢:40歳
現在47歳となるAさんは食に関連する会社でバリバリ働く会社員。夫は14歳年上で現在61歳のSさん。IT関連の仕事をしている。二人が婚約したのはAさん33歳のとき。でも入籍は40歳。その理由は、婚約直後に発覚したSさんの白血病だった。
イタリア語教室で出会った「男おばさん」
お料理が趣味であり、仕事でもあるAさん。30歳のとき、憧れているお菓子の先生に勧められ、美食の国・イタリアの言語を学ぶことに。選んだイタリア語講座は8割がAさんと同年代の女性。あとの2割の男性たちが1クールで辞めていくなか、なぜか熱心に通い続けるおじさんがいた。当時44歳のSさんだ。イタリアのファッションや映画が好きで、通っていたそう。
「ナポリ出身のイタリア語の先生はしょっちゅう生徒を自宅に招き、手料理を振る舞ってくれたので、みんなも自然と仲良くなり、プライベートでも遊ぶ仲に。アラサーの女性たちがきゃぴきゃぴ騒ぐなかでも、不思議とその場に溶け込むSのことは『男おばさん』なんてイジッたりして、全然異性として意識していませんでした」
一方、SさんはAさんに一目ぼれ。知り合ってから2年経った頃、ベルギーに転勤することになったSさんは思い切ってAさんを食事に誘い、交際を申し込んだ。
「本当にびっくりしました。『まずは友達から』とお返事したんですが、実はこれには邪心があって(笑)」
その頃、ヨーロッパによく一人旅をしていたAさん。ブリュッセルに知り合いがいれば、ご飯を食べるときに寂しくないと考えたそう。
そしてAさん33歳の春。日本への本帰国が決まったSさんはパリを旅行していたAさんに会いに行き、ノートルダム寺院の前でプロポーズ! ところが、Aさんの答えは「私たち、結婚できるほど付き合ってないよね?」。たしかに告白を受けてからの1年間、超遠距離恋愛だったため、デートも数えるほど。今後については日本に帰ってからゆっくり考えることになった。
式場下見の日、血尿が。病院に行くと……
その年の冬、Aさんの父が亡くなり、Sさんが葬儀に参列したのをきっかけに、母に紹介。すると、お母さんはSさんのことをとても気に入ったそう。
「そして私もSのお母さんや妹さんにお会いしてみたらいっぺんに大好きになったんです。Sはお父さんを早くに亡くし、お母さんに女手一つで育てられました。だからか家族みんな仲良しで、お母さんも妹さんも、サバサバしていて気持ちのよい人たち。こんな素敵な家族が増えるなら結婚もいいな、と思いました」
そして、婚約。2010年5月4日に両家顔合わせをし、翌5日は指輪をオーダーし、結婚式場の下見へ行った。順風満帆のはずだったその日、Sさんの体調に異変が。血尿が出たのだ。7日に病院へ行き、血液検査をすると、医師の顔が曇った。急性骨髄性白血病だった。
精子凍結はしないと決めた理由
即日、専門病院へ転院し、緊急入院。遺伝子検査で再発しやすい「予後不良」のタイプだと判明し、骨髄移植をすることに。治療を始めると生殖機能が侵されるため、医師から「精子凍結はしますか?」と尋ねられた。
「Sは当時48歳。白血病との戦いには5~10年かかると言われていました。すると、子どもを持てるのは53~58歳になる。成人するときには76歳です。それは無理だなって……。何より、一刻も早く治療を開始したい気持ちのほうが強く、精子凍結はしないと二人で決めました」
治療方針が固まり、骨髄移植のドナー探しが始まった。
「まずは白血球の型が合致する可能性が高い親族から探るのですが、お母さんは高齢でダメ、妹さんは型が不一致と、どんどん希望が潰されていって……精神的にきつかったです」
医療書を買い集め、情報収集に奔走する日々。結局Sさんは骨髄バンクを頼ることになった。
「当時、骨髄バンクのドナー登録者数は30万人以上。絶望しかけていたあの頃、その数字にとても勇気づけられました。ドナー登録は少しの採血でできるので、患者の生きる希望のためにもぜひみなさんに登録してほしいです」
無事、ドナーが見つかり、2010年10月に骨髄移植。ドナーの骨髄液を、担当医が飛行機で運んだ。
「骨髄移植自体は手術とは違って数時間かけて点滴をするような方法でした。 移植中は会話も食事もできて余裕があったのですが、その後が大変。他人のものを入れるので、免疫細胞が激しい拒否反応を起こし、Sに急性GVHD(移植片対宿主病)による重篤な副作用が起きてしまいました」
繰り返す再入院。希望が見えない時期も
なんとか乗り越えたSさんは、退院後、Aさんの実家で療養することに。日中は仕事で不在のAさんに代わり、看護してくれたのはAさんのお母さん。本当の親子のような絆ができたそう。その後、Sさんは職場復帰するも慢性GVHDとなり、再入院を繰り返した。治療の副作用で精神不安定になり、長期療養で将来が見えない不安もあって、SさんはときにはAさんにつらく当たってしまうことも。Aさん自身も、仕事と看護の折り合いに苦労し、追い込まれていたが、一度もSさんを見捨てようとは思わなかった。
「この人の命は私と一緒にいることで少しでも助かるんだってことに燃えていました。ずっとそばにいてあげたいと思ったし、この人の命のためならなんでも調べて、できるだけ役に立ちたいと思いました。大切な人の命を前にしたら、みなさんそうなると思います」
移植から1年後、小康状態に入ったときにやっとドナーの方に骨髄バンクを通してお礼状を送ることができた。「そのお返事には、『知らせが来ないのでもしや……とずっと心配していたので、嬉しくて涙が出ました』と書いてありました。その方に報いるためにも元気にならなければと改めて思いました」
回復の兆しが見えた2013年10月。Aさん37歳のときに親族だけを集め、結婚式を挙げた。それでも入籍はしなかった。その理由は入籍で付与される5日間の「結婚休暇」。
「じつは、白血病が発覚した時、ちょうど勤続10年の表彰で5日間の有休をもらっていたんです。それを使って独身最後に母をヨーロッパへ連れて行こうと、ホテルも航空券も手配していました。当然旅行はキャンセル。その悔しさから、今度は絶対に旅行に行ける状態になってから入籍するぞって決めていたんです」
かけがえのない日常を二人で
そして、2016年6月、40歳で入籍。翌年、念願の新婚旅行でポルトガルへ。現在も薬と検診は欠かせないが、穏やかな夫婦の時間を過ごせるようになった。毎朝二人でラジオ体操をするのが日課で、上野動物園のゾウの赤ちゃんが二人の推し。今もAさんのお母さんは週2回、夕食を作ってくれて、3人で仲良く暮らしている。
「3人で旅行に行くこともあるんですが、Sと母が夫婦だと間違われることも(笑)。図らずも子どもを作らない選択をしましたが、甥や姪もいるし、何よりSが元気で一緒にいられることがありがたいので、後悔はありません。Sとは趣味が合い、ジェネレーションギャップもあまり感じませんが、同じ年に生まれたかったなとは思います。もし先立たれたらと思うと寂しくて……。私より長生きしてねっていつも言っています」
取材に同席したSさんは、「もしAちゃんがいてくれなかったら、つらい治療を耐え切れなかったと思います。僕の命の恩人です」と語った。
「パートナーに対して不満ばかり言う人を見ると、もったいないなあって思います。命は当たり前じゃない。一緒に出掛けたり、ご飯を食べたりする日常がどれほど尊く、幸せなことか。Sとの結婚で、日常のかけがえのなさに気づけました」
そして二人は寄り添いながら、あたたかな家へ帰っていった。
(写真:本人提供)