料理家・真野遥さん「とことん“逃げ”だったキャリア。失敗を繰り返したからこそ自分の軸が見えてきた」

日本酒と発酵食料理のペアリングが学べる料理教室を開いている料理家の真野遥さん(32)。昨年末には『いつものお酒を100倍おいしくする最強おつまみ事典』(西東社)を出版しました。メディアへの出演も多い真野さんですが、料理家になるまでには失敗の連続だったそう。これまで自身のキャリアと、どのように向き合ってきたのでしょうか。真野さんに聞きました。

就活で失敗 料理に目覚めて

現在の私は、日本酒と発酵食をテーマに料理教室を開いたり、企業向けにレシピを考案したり、メディアに出演したりなど、幅広く活動しています。

新卒で就職したのは、料理とは全く無関係の化学系の専門商社でした。
“ものづくり”に携わりたい思いがあり、就活では素材メーカーを志望しましたが、全部落ちてしまい、就職したのは社員20人弱の、素材を扱う専門商社。
素材に関わる仕事はできたものの、入社してからは会社に仲の良い同僚もいなかったし、年の離れた上司達との壁を感じてしまい……。思い描いていた社会人生活からはかけ離れた孤独な毎日でした。
社会人1年目の冬に一人暮らしを始め、自炊をするようになってからは、帰宅後に料理をしてお酒を飲むことが、唯一の楽しみになりました。

料理って、自分のために作ったり身近な人を喜ばせたりできる、一番身近な、“ものづくり”。健康のためにも必要だし、何より楽しい――。毎日自炊しているうちに、「料理に関わる仕事がしたい」という気持ちが湧いてきたんです。

精神面の不調から体調を崩しかけたことをきっかけに2年目の秋に会社を退職した私は、奈良の旅館の仲居や飲食店のキッチンスタッフを経て、フードコーディネーターの資格を取るための学校に通い始めました。
料理の演出を行うフードコーディネーターの仕事は楽しそうだったし、料理経験の浅い私でも努力次第でなれると思って。料理を仕事にするために当時導き出した答えが、フードコーディネーターとして働く、ということでした。

日本酒造りを知り、真剣に取り組みたくなった

学校を卒業後してからは、修行のために料理研究家のアシスタントとして働きました。
テレビ番組の収録や料理教室などの手伝いを経験し、とてもいい勉強になったのですが、未熟だった私は、厳しい先生に毎日怒られてばかり。お給料も安かったので、貯金を切り崩しながら修行をしていたのですが……。精神的にも肉体的にも、そして金銭的にも継続が難しくなり、3カ月で辞めることになりました。

その時期に出会ったのが、ネットで配信する日本酒の番組を作っている人。
お酒が好きな私はその番組に出て、蔵元のインタビューや、試飲会のリポートをやらせてもらうことになりました。番組に出演し、日本酒のことを知っていく中で、その魅力にどんどんハマっていきました。

私が出会った日本酒に関わる人たちは、潰れかけた蔵を立て直そうと奮闘したり、若い世代に飲んでもらえる新しい形を模索したりされていました。それぞれの思いが、とても素敵だと感じました。

例えば、丹沢山をつくっている川西屋酒造店(神奈川県足柄上郡)は、地元・小田原で獲れるお魚の美味しさが引き立つような味わいで、試飲会では蔵元さんが、お酒とお魚の組み合わせを力説してくれる。地元への愛をすごく感じたし、地域文化の一つとして日本酒が存在しているのだと気づかされました。
不老泉をつくっている上原酒造(滋賀県高島市)では、蔵元さんと杜氏さんや蔵人さんが、多くの言葉は交わさないけれど、互いにリスペクトし合っているような印象も伝わってきて。信頼関係があるから、できあがったお酒が美味しくなるんでしょうね。酒蔵の人間関係がギスギスしていると、不思議とお酒に雑味を感じることが多くて。数値化できないものが味に影響しているのが面白いと感じましたね。

こうして様々な思いに触れる中で、これまで自分が食の表面的なところだけを見ていたことに気づかされたんです。もっと真剣に取り組みたいと思うようになり、アシスタントを辞めた後は、派遣社員として働きつつ、日本酒と食、双方の勉強を始めました。

逃げてたどり着いた自分のこたえ

派遣社員生活の傍ら、不定期で料理研究家のアシスタントをしたり、日本酒好きが集まる日本酒会で料理を作ったり、日本酒バーの女将をやったり――。全国の酒蔵巡りもして、日本酒や地域の食材のことなどをたくさん勉強できました。

そして派遣の契約が切れた26歳の時に個人事業主として独立。日本酒バーでアルバイトをしながら、おつまみのケータリングサービスを始め、不定期の料理教室を開催。日本酒関連のイベントのご縁で声をかけていただいて、お仕事が決まっていく感じでしたね。この時はまだ不安定だったかな。

その後、フリーランスだからこそベースがあった方がいいと思い、拠点を設けて定期的に料理教室を開催するようになりました。
拠点を持ったのは、私自身のおしりを叩く意味もありました。毎月賃料がかかる場所を借りれば、強制的に自分を追い込むことができるじゃないですか。
実際に、毎月、料理教室を開くのは本当に大変でした。「集客できなかったら赤字になる」という危機感も相まって、この時期に一気に成長できた気がします。仕事面でも、精神的にも安定して、本当に仕事が楽しくなってきたのは、この頃。
生徒さんもだんだんと増えて、いまでは毎回満席になるほど。「予約の取れない料理教室」という触れ込みで、他の仕事ももらいやすくなりましたね。

定期的に料理教室を開く今の形に落ち着くまで、私のキャリアはとことん、“逃げ”だったように思います。新卒の会社はすぐに辞めてしまったし、そのあと奈良の旅館で働いたのも、東京から逃げたい一心での選択。苦手なことややりたくないことから逃げて、仕事が長続きしないことばかりだったんです。でも、私にとって「逃げ」は決してネガティブなことではありませんでした。

失敗を繰り返す中で「自分には何が向いているのか」「本当は何がやりたいのか」といった自分の軸が見えてきたから、です。経験に無駄なものはなく、すべて後々の財産になった。 周りと比べて劣等感を抱くこともあったけど、失敗があったからこそ「這い上がるぞ」って悔しさがバネになりましたね。20代のうちにたくさん失敗させてもらったことに感謝しています。

その時々でやれることをやればいい

そして2020年6月に、東京と京都の二拠点生活を始めることになりました。京都は大学生の頃から大好きな場所で、移住も考えましたが、夫が東京で働いているから叶わなくて。話し合って「じゃあ二拠点生活しちゃおう!」って思い切って決めたんです。

今は1カ月のうち2週間くらいは京都で過ごしています。一軒家をシェアしているので家賃は抑えられているけど、東京との往復の新幹線代や諸々のお金がかかります。金銭的な負担は増えますが、夫も「なんとかなるよ」と背中を押してくれました。

京都では、あまりガツガツ仕事はせず、“自分らしく”過ごしています。すぐ近くに山と川があって、ひらけた空が見える。少し足を伸ばせば農家さんに会うこともできるし、琵琶湖に行くことも。そんな自然が近くにある環境の中で、季節ごとに手仕事の会を開いたり、友達が獲ったジビエをみんなで料理したり、山菜を摘みに行ったり……。最近は、「発酵室 よはく」という、暮らしに余白をつくることをテーマにした活動も始めました。定期的な味噌作りの会や、発酵で繋がるコミュニティ作りなどに取り組んでいく予定です。二拠点生活を始めて、暮らしがすごく豊かになったかな。

夫は、一緒に京都に来ることもあれば、違うときも。お互いに相手のやりたいことを尊重しているので、とても心地いいです。

ゆくゆくは子どもがほしいという気持ちはありますが、「なるようになる」とも思っています。日本酒と発酵のペアリングを軸にした料理教室を運営しているため、妊娠したら日本酒を味わうことはできなくなってしまうので、教室も中断せざるを得ません。
でも、キャリアへ悪影響があるとはあまり思っていません。子どもを持ったからこそ、できる仕事もきっとあるはず。

これまでたくさん失敗してきましたが、今は自分らしく仕事と生活ができていてとても楽しいし、未来はだんだんとよくなっていくものだと、楽観的に捉えています。その時々で、「自分がやれることをやっていけばいいんじゃないかな」と思っていますね。


●『いつものお酒を100倍おいしくする 最強おつまみ事典』

著者:真野遥
出版:西東社
価格:1,300円(税抜き)

1989年、東京生まれ。2013年に入社後、記者・紙面編集者・telling,編集部を経て2022年4月から看護学生。好きなものは花、猫、美容、散歩、ランニング、料理、銭湯。