[Artists at Home#01]詩人・最果タヒ「やりたくないことがとてつもなく多くて、やりたいことに気づけるというだけ」

新型コロナウイルスの感染拡大が続く中、ミュージシャンをはじめとするアーティストたちの活動の制限が余儀なくされています。自宅で過ごす時間が自ずと多くなる今、アーティストたちの日々の暮らしがどう創作に影響しているか興味を持ったのは、歌手の伊藤美裕さんです。この「Artists at Home」のコーナーでは、伊藤さんが話を聞きたいアーティストに会い、インタビューをします。今回登場するのは、ミレニアル世代の詩人、最果タヒさんです。
  • 記事末尾でコメント欄オープン中です!

2020年春、思いもよらない感染症の拡大で、これまでの日常が一変した。私の周りのアーティストたちもライブが中止になったり、作品の発売が見送られたりと大きな影響を受けたけれど、彼らの生活は大きく揺らがない。その理由に興味を持った。

もしかすると、彼らの生活そのものにそのヒントがあるかもしれない……。これまでもアーティストを見ていて、その人の生き方と生活が強く結びついていると感じることが少なくなかった。歌詞を書き始めてからものを書く人たちにも関心が向いている今、このコーナーではさまざまなジャンルのアーティストの中でも、書くことを生業にしている人たちに焦点を当ててみたい。彼らがどのような生活を送って、言葉を生み出しているか、探っていこうと思う。今回は、ひときわミステリアスな詩人、最果タヒさんにお話をうかがった。

作家の「色」はつけたくない

――最果さんは、顔出しはNGで、プライベートをあまり明かされていないように感じます。その理由を教えてください。

最果タヒさん(以下、最果): 同じ詩でも、違う解釈でそれぞれが読んでいるんだ、と実感することがこれまでとても多くありました。私は作品をメッセージや自己表現として作っていないのもあって、余計に読む人のその時の感覚が、作品の色を変えていくように思います。ですので、できるだけ、作者がどんな人かということに影響を受けないで読まれていたいと思っています。本を読むのは不思議で、その言葉が誰から生まれたのかわからなくなる瞬間というか、自分から溢れでたような錯覚がある時があって、私はそれが好きなのです。こういう人が書いている、というイメージがつけばつくほど、作家の「メッセージ」として読者に受け止められがちですが、それは避けたいなと思っています。それに、作品と生活との間に、あまり関連性はないかなと思っていて。めんどくさがり屋なので、生活にあれこれとこだわる方ではありません。何かをやりたい!と思い立つことがあれば、すぐにやってしまうので、予定も立てないし、ルーティーンもないです。逆にやらなければならないことをやるのはなかなかできません。前もって何かが決まっているというのはすごく苦手です。

――というと、しっかりご自身の声を聞くことができているということですよね。

最果: やりたくないことがとてつもなく多くて、だからやりたいことに気づけるというだけじゃないかと思います。やりたいと思えるだけで、それは自分にとって大きなことなので、そこでやらない理由が特にないと思っています。昔はいろいろ考えたりためらったりしましたが、そうやって考えてバランスを取っても、やりたいことはなかなか諦められません。絶対に食べたいものは食べに行くし、行きたいところには行く。そうしないと、いつまでもその考えが頭に居座るのです。そこは性質なので、客観的に諦めているのかもしれません。

最果タヒさん Photo: Eisuke Asaoka

詩は、意識しないで書き始める

――生活の中で、どのように詩を書くのですか?

最果: スマートフォンを使って、どこにいても書きます。お店の待ち時間に書いたり、部屋で寝転んで書いたり。書き始めるとずっとそれしかやりませんが、書きながら、「書ける時」を待つという感じです。私の場合、一気にばっと書くほうがよく書ける気がしていて、そのばっと書ける時間は、書いてないとやってこない気がしています。読者が読むスピードで書けることが一番の理想で、そうすると言葉がとても近く感じられるんです。何を書きたいか、何を伝えたいかを考え始めると、言葉より内容に近づいてしまうので、どうしても遠回りな感じがして、それだと私はうまく完成させられません。もしかしたら「詩を書く」ということを意識するとそれだけで、書けなくなるのかもしれないです。ですので、さりげなく、詩ではない何かを書くつもりで、書き始めることが多いです。自分の気持ちとかは関係ないところに行けると、よく書ける気がします。

――最果さんのスタンスとして、作品に対しては個人的な感情や気持ちを込めないようにしている、と。

最果: はい。何を伝えたいか、といったことは考えないように、言葉が自分を無視して勝手に書いたような、そんな錯覚がある瞬間を求めています。その方が、驚きに満ちていて、書いていて楽しいです。でも、そうやってできた作品は、私にも全体がちゃんとわかるわけではないので、作品として大丈夫なのかなというのは不安もあります。手応えしかわからないので、それだけを信じていいのかなって。そういうときに編集者さんが感想として自分の手応えと似たことを言ってくれたり、SNSの反応が自分の感覚と近かったりすると安心します。他者がどう読むかということは私にはコントロールしきれないし、そこをわかったつもりにはならない方がいいと思っていますが、かといって自分が伝えたいことを書いているわけではないので、とても淡い手応えだけを道標にしているんだなとよく思います。でも、それを手放すわけにもいかないのかな、と。自分が頼りにしている感覚が、間違ってなさそうだ、とわかると安心するんです。

「最果タヒ 詩の展示」(2019年横浜美術館)Photo: Koya Yamashiro

――他人や社会に対する関心はどこにありますか。特に今年、世の中の変化を通して、何か感じたことがあれば教えてください。

最果: コロナの影響で、誰もが同じ問題に向き合っているような感覚が世の中にはあり、そのために「共感されないものは発言しづらい」という空気があるように思います。たとえコロナという大きな問題があっても、その影響がどのように出るかは立場や環境によって異なるし、苦しさや痛みは人によって全く違うはずなのに、その違いが人を不安にさせてしまうというか、「この程度のしんどさをしんどいと言ってはいけないんじゃないか」と躊躇ってしまうような瞬間があるように思っていて。けれど、誰かと気持ちが完全に同じなんてことはないし、言葉というのは、わかってもらうため、共感してもらうために使うものではなく、自分が自分としてあり続けるために存在していると私は思うんです。共感される言葉に自分の気持ちを書き換えたり、誰かの言葉を借り続けたりすることで、自分が本当に思っていたことを忘れていってしまうのではと思うことはあります。たとえば誹謗中傷だとかもそうで、みんなが石を投げているから、という理由で、有名な人に石を投げるとき、そこにはもうその人の気持ちって関わっていなくて、その人が相手をどう思っているかなんて関係なくなっていく。そうやって、相手のことだけでなく、自分のことも、一人の人間であり生きているんだと、気づくことができなくなっていくのかもしれないです。

私が芸術や文学を好きでいるのは、作品を前にしたとき、他者がそれをどう見るかということが全く関係なくなるからだと思います。答えがない作品を前にすると、「自分はどう思うのか」ということだけが、体の中に残されていく。こんな見方でいいのかな、とか、こう読めたけどこれでいいのかな、とか、最初は不安にもなりますが、次第にそれが心地よくなっていきます。自分というのは心細い存在ですけれど、でもそれが世界の豊かさを教えてくれるように感じるんです。自分の作品もそんなふうに触れてもらえるものであればいいなと願っています。

「最果タヒ展」(2020年三菱地所アルティアム)Photo: Ayako Koga

言葉には「必然性」がある

―― 最近、ご自身初となる翻訳本『わたしの全てのわたしたち』(原題:One)を出版されましたね。

最果: サラ・クロッサンの『わたしの全てのわたしたち』は結合双生児のグレースとティッピの物語です。全編が詩で構成された物語です。翻訳家の金原瑞人さんによる訳を下地としていただき、それを頼りに詩に書き直していくことが私の役割でした。作品はグレースの一人称で進みますが、グレースは、活発ではっきりものを言うティッピと違い、思慮深いがゆえに、なかなか言葉を見つけることができない人です。けれど、体がくっついたグレースとティッピは、言葉にしなくても相手の気持ちを察することができるし、常に共にいるからこそ、相手を尊重することができる。だからティッピはグレースを焦らせることがなく、グレースに安易な共感を求めることもしません。グレースが考えて、考えて、そして言葉を探す時間をじっと待つことができるんです。作品にある詩は、グレースが感じて悩んで苦しんで、そうして曖昧に形を変え続ける心情を、必死に言葉で縁取ろうとした、そんな形跡のように思いました。だから、詩で書かれることがとても自然なことに思えたのです。私はそのグレースの、言葉にしきれない何かに忠実であろうと考えて訳していました。原著には韻文が印象的に使われていますが、それは、グレースが自分の発した言葉に背中を押され、どんどん自分の深いところに入っていく姿に重なっていました。それを日本語にする場合、どうしたらいいのかしばらく悩みました。日本語の韻文を用いるより、むしろ散文詩の形を取る方が良いのではないか、と気づいてから、やっと書き進めることができました。サラさんが書いた時の、「言葉がそこに現れてしまった」必然を大切に、その瞬間をそのまま書けたらいいな、と思いながらの作業でした。

――必然といえば、最果さんが出会うべくして出会った、というような特別な言葉はありますか。

最果: 詩に興味を持ったころ、詩とはなんだろうと思って開いた『吉増剛造詩集』の「燃える」は、とてつもなく衝撃でした。詩とはなんなんだろうとか思っていた自分がどうでもよくなるというか、そんな問いに答えはないと思いました。ただ、それが詩であることだけがわかって、私はだから詩が好きになったのだと思います。自分の中の枠が取り払われて、ゼロにも無限にもなったような感覚になる瞬間が好きです。答えを探し当てるのではなく、そういう果てしない感覚になる時に「本当のこと」に触れたような気持ちになります。そして、理解や共感ではないところに自分が放り込まれるとき、自分というものを押し込んでいた枠も剥がされていくように感じます。書く上でもそれは同じかもしれません。自分ではないところに自分を連れていきたい。そうやってずっと、言葉を通じて世界や自分の底知れなさを感じ取っていたいんです。

 

【取材を終えて】
言葉について「自分が自分であり続けるためにあるもの」と語られたタヒさんは、自分と対話する術を意識することなく自然に身につけられた方なのだと思う。同時に、詩はタヒさんにとって「自分の枠を取り払ってくれる」存在であり、なんでも答え探しが普通の世の中にあって「自由が与えてくれる可能性」そのものなのではないだろうか。
今回のインタビューでは、同じように何からも制限を受けることのないタヒさんの生活を垣間見られた気がした。

取材の最後に「ひとつだけ思い出しました、ルーティーン!カフェ・ラテ、1日5杯飲みます!」と教えてくれたタヒさん。無邪気な人だった。

 

●最果タヒ(さいはて・たひ)さんのプロフィール
詩人。1986年生まれ。2006年、第44回現代詩手帖賞を受賞。07年に刊行した第一詩集『グッドモーニング』(思潮社/新潮社)で第13回中原中也賞受賞。『わたしの全てのわたしたち』(ハーパーコリンズ・ジャパン)で初の翻訳(金原瑞人さんとの共訳)。20年11月26日に『夜景座生まれ』(新潮社)を出版。20年12月から渋谷パルコなどで『最果タヒ展 われわれはこの距離を守るために生まれた、夜のために在る6等星なのです。』が順次開催予定。

『わたしの全てのわたしたち』

著者:サラ・クロッサン
翻訳:最果タヒ/金原瑞人
発行:ハーパーコリンズ・ジャパン
価格:1,870円(税込)

編集協力:小野ヒデコ

歌手。1987年、大阪生まれ。2011年に日本コロムビアより100周年記念アーティストとしてデビューし、ラジオDJ、映画や舞台の出演、音楽情報サイトのコラムの連載など、ボーダレスに活動。最新の作品はアルバム「AWAKE」。