作家・山内マリコさん「作家にもなれず、結婚もできない、端から見ればただのニートだった20代後半。くすぶっていたから今も書き続けられる」
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大学時代に気づいた、作家に向いている理由
――作家になりたいと初めて思ったのはいつ頃ですか?
山内マリコ(以下、山内): 中学2年生のときですが、小説家の夢一筋だったわけではないんです。映画も好きだったから映画監督にもなりたいと思ってたし、写真家もいいなと思ったり、好きになったものなら、なんにでも憧れました。映画の勉強ができる芸大に進んだのですが、チームで一つの作品を作るのは向いてなかった……。映画撮影の現場は体育会系のノリだし、監督やカメラは当たり前のように男子が占めていて、そこで前に出られるほどのパワーもなく。自分がなにをしたくてここに来たのか、みるみるうやむやになっていきました。その代わり、家にこもって誰にも会わず、ひとりで文章を書くのは性に合っているかも、という発見はできて、卒業するころには中2のときの夢に再びなびきだしてました。
――大学卒業後は京都でアルバイトをして、やがてライターとして活動されたそうですね。
山内: ライターになった当初は、文章を書いてお金をもらえるなんて、めちゃくちゃうれしくて大喜びだったんです。でも署名記事は書けず、そこで自分の色を出せないのがだんだん苦しくなってきてしまった。その頃は自己表現したい欲求がとても強くて、やっぱり小説を書いてみたいという思いがどんどん大きくなり、25歳のときに思い切って京都を引き払って上京しました。
――大きな決断だったと思いますが、かなり勇気がいったのでは?
山内: いまから思うと、あれがターニングポイントでしたね。思い立ったらすぐ行動、みたいなフットワークの軽さと、若さゆえの勢いがありました。自分の経験と、周囲の上京者のエピソードからしても、こういう前向きな、ちょっと勇気のいる発展的な決断は、絶対に吉と出ますね(笑)。
――東京に来てからはどんな生活でしたか?
山内: アパートに引きこもって小説を書いては、手当り次第に新人賞に応募していました。わたしは無職でないと小説が書けないタイプで……。退路を断って、自分を追い込んでと、ストイックでしたね。一人であちこち東京を見て回って、気に入った名画座に出かけたり、高等遊民みたいなこともしてるんだけど、内心「こんなことしてていいのか」とも思っている。心の中はスカッと晴れることはない、そんな日々でした。
27歳で「R-18文学賞」読者賞を受賞。そこからくすぶり続けた日々
――そして、27歳のときに新潮社主催の「女による女のためのR-18文学賞」に応募されて読者賞を受賞されたんですね。
山内: ちゃんと小説を書き始めて2年弱での受賞。あっさり賞まで漕ぎ着けてる気がしますが、20代後半の2年って、1日1日が濃密だし、時間の流れ方が違う。ものすごく長いトンネルを抜けてやっと出られた、そんな気持ちでした。けど実はそれが、別の意味での地獄のはじまりで……。1冊の本にして出版できるまで、そこからさらに倍、4年かかりました。気づいたら作家志望のニートのまま30歳になってしまって、沼から出られない状態に。
――山内さんの30歳は、ちょっとしんどい時期でしたね。
山内: 時代が変わったのはひしひし感じるようになりました。わたしが10代だった1990年代は、女の子が自己表現したり、自分の夢を追いかけたりすることが、すごくいいことだと称揚されていました。雑誌やテレビドラマといったメディアから受け取る価値観は、夢を追いかけるのが正しくて、妥協するのは間違いというもの。ところが、世の中は2000年代にどんどん保守化していって、女性の雇用形態が悪化して、外で働くことがキラキラしたものではなくなってしまった。若い女性の専業主婦願望が強いというデータが出たのもこの頃。そういう流れの中で、わたしも「結婚しなきゃヤバい」という焦りに突然駆られました。それまで、映画監督とか小説家とか写真家を夢見たことはあっても、結婚を夢にカウントしたことはなかったのに(笑)。
くすぶっても諦めない。この時期があったから書き続けられた
――でも最終的には大きな夢をかなえていらっしゃいます。実現できたいちばんの理由は何だったと思いますか?
山内: すごく月並みですが、諦めなかったこと、それだけな気がします。地元に帰ろうかと気持ちが揺れた時期もあったし、東日本大震災が起こった時は、一時期、東京を避難して実家に疎開していたんです。けど、どういう状況でもずっと書き続けていました。あとは、つき合ってた人がよかった(笑)。20代のうちに結婚したい気持ちはあったので、それとなーく勧めたところ、「君の経済状況がこのままだと無理」ってきっぱり断られて(笑)。もし彼が、男たるもの妻を養うべし、みたいな古いタイプの男性だったら、結婚とトレードして夢がスポイルされていたかもしれない。当時は「ちぇっ」くらいに思ってたけど、実はすごく重要なことでした。
でも今、くすぶっていた時代を振り返ると、すごくいい時間だったと思います。映画を観たり本を読んだり、インプットを無限にできた。結婚に焦ったことが、フェミニズムに目覚めるきっかけにもなりました。それに何年もバネが縮められた状態だったので、デビューして急に忙しくなっても、ストックはたっぷりあった。息切れせずにずっと書けた。あの時期のおかげで、作家になってからも書き続けていられるんだろうなと思います。
――作家になれなかったらどうしよう、という不安はなかったですか?
山内: すっごくありました。先のことを考えると不安だし、いつも憂鬱だし、それが常態化していて、ひどい精神状態でした。あの時期を耐えられたのは、飼っていた猫のおかげかな。猫のお世話をしていることで、自分をなんとか保っていられた気がします。
結婚は「自分の舟を自分で漕ぐ」ことが理想
――ご主人とはどのような夫婦関係を築いていますか?
山内: 対等な関係ですね。それが理想だし、信条です。夫婦ってどちらかが我慢する側になって、上下関係になりがち。とくに、放っておくと女性が家事などの雑事をやることになってしまう。恋人時代は女性が上でも、生活するうちにパワーバランスが変わって、女性は下になっていく。それに抗いつづけて、今に至ってます(笑)。同棲を何年かしてからの結婚だったのですが、同棲中から家事負担が自分に偏ると、春闘と称してフェミニズム主張をして、家庭内での平等を言いつづけました。最初はピンときてなかった夫も、かなり話がわかるようになり、今や互角のフェミ論客に成長(笑)。数は減ったものの、今もちゃんとケンカします。ケンカは関係が対等でないとできないハードなコミュニケーション。ケンカできる関係は、パワーバランスが正常ってことなんだと思っています。
――新刊『The Young Women's Handbook~女の子、どう生きる?~』の中で、「自分の舟を自分で漕ぐ」という章があります。この章は山内さんの結婚観でもあり、後輩の女性たちに贈る結婚についてのメッセージでもありますね。
山内: 結婚は、実際にしてみないとなにもわからなかった。経験してみて、「こういう仕組みだったのか」「こういうトラップがあったのか」と気づくことが本当に多くて。自分の舟は自分で漕いで、いつでも好きなところへ行ける。好きな人の舟とドッキングしたかったらする、離れたくなったら別れられる、そのくらい自立した者同士の結婚が理想です。わたしは一人暮らし経験が長かったのですが、お金の面ではかなり親に頼っていて、経済的に自立できていたわけではなかったんです。だから「女性の自立!」と偉そうなことは言えない。いつの時代も、女性が自分の生活費を稼ぐことは本当に大変だから。ただ、そこを男性に頼った瞬間から、修羅の道なんだということは肝に銘じておいて損はないかと。
――新刊のカバーはクレールフォンテーヌ社の定番ノートのマドラス柄ですね。何か特別な思い入れが?
山内: クレールフォンテーヌのノートには、青春時代の憧れとときめきがつまってます。愛読していたファッション誌で紹介されてるのを見て以来、いろんな柄やサイズを愛用して、作家になったこの10年は創作ノートとして80冊くらい使っているので、なくてはならない存在。わたしが鞄にいつもクレールフォンテーヌのノートを入れて持ち歩いているように、ちょっと気持ちが弱っている女の子がお守りのかわりにこの本を持ち歩いてくれたらいいな、という思いでカバーの柄に使わせてもらいました。
――次回はどんな作品を予定していますか?
山内: 女の子同士の友情をテーマにした連作短編集になる予定です。
――次回作も楽しみにしています。今日はありがとうございました。
●山内マリコさんのプロフィール
1980年生まれ。2012年に『ここは退屈迎えに来て』(幻冬舎文庫)でデビュー。おもな著作に『選んだ孤独はよい孤独』(河出書房新社)、『あたしたちよくやってる』(幻冬舎)、近刊に美術館エッセイ『山内マリコの美術館は一人で行く派展 ART COLUMN EXHIBITION 2013-2019』(講談社)がある。『あのこは貴族』(集英社文庫)の映画化と、雑誌『CLASSY.』(光文社)の連載小説をまとめた『一心同体だった』の刊行を控えている。
『The Young Women's Handbook~女の子、どう生きる?~』
山内マリコ
発売:光文社
価格:1,540円(税込)