「東京五輪は伝える側に回りたい」 陸上で北京五輪出場の小林祐梨子さん、少年院での計算指導で知った「10歳の壁」

2008年の北京オリンピックで陸上女子5000mに出場した小林祐梨子さん(31)は、2015年に競技を引退しました。いまは兵庫県加古川市で暮らし、3歳のお子さんを育てながらテレビやラジオに出演したり、少年院で計算を教えたりと充実の日々を送っています。小林さんが持ち前の早口で、引退後の歩みを語ってくれました。

――5年前に引退したころは、今後についてどう考えていらっしゃったんですか。

小林祐梨子(以下、小林): ふるさとの兵庫県小野市に戻ってきたんですけど、すごく焦ってました。「何か仕事をしなあかん」と。高校の数学の教員免許を持ってたので「先生になった方がいいんかな」とか。まあ魚みたいな性格だったので、常にスケジュール帳に何か書き込みたくて。引退した直後はいろんな葛藤がありました。

――その葛藤の時期をどう乗りきったのでしょうか。

小林: そのときはまだ結婚してなかったんですが、旦那が支えてくれました。彼もずっと陸上をやってて、中学2年から14年間付き合って結婚しました。彼は東京農業大学で箱根駅伝をめざしてました。でも走れなくて、大学を卒業してから地元の加古川市に戻って家業の造園業に就いたとき、箱根駅伝という輝かしい世界と地元での生活のギャップに悩んだそうなんです。私にも最初はそういう時期があるだろうと、しっかりフォローしたいと思っていてくれたんです。

あるとき小学校の講演会に呼んでもらって、子どもたちに私の経験を語りながら、夢について話しました。そのときに子どもたちのキラキラした目を見て、「私にしか伝えられないことがあるんや」と思いました。いま自分にしかできないことを探してみてもいいかなと感じたので、先生になるのはとりあえずあきらめました。そして徐々にマラソン大会のゲストランナーやコラム執筆なんかのお仕事をいただけるようになりました。

講演会で熱っぽく語りかける=小林さん提供

――最初にラジオの仕事を始めたのは、お子さんが生まれたばかりのころだったんですね。

小林: 生後半年でした。話をいただいたときはまだ子どもの首がすわってなくて。その番組が3時間だったこともあって、「無理です」って言いました。そしたらプロデューサーの方が「いまは子どもを母親一人で育てる時代じゃなくて、みんなで育てる時代やから、よかったらスタジオに連れて来て下さい。何とでも対応できます」と言ってくれて。できる限り母乳で育てたいと思っていたので、ありがたい言葉でした。

旦那に話したら、「ええやん。家で3時間しゃべられるより、そっち行ってくれた方がええわ」って(笑)。伝える側で東京オリンピックに関わりたいという夢もあったので、やってみることにしました。大阪の放送局まで電車で通うんですけど、子どもはうれしいみたいで、一回も泣いたことないです。

もともと妊娠したときに、義理の母が「ゆりちゃんは仕事してるときが一番イキイキしてるから、子どもを授かってもみんなに頼って働いたらええんやで」と言ってくれました。私の母も「子どもができても夢を追ったらええやん」って。みんなでフォローしてくれる状態をつくってもらえたので、いろんな相談ができて、子育てと仕事がうまく両立できるようになったんです。

妊娠が分かったとき、その時点で決まっていた仕事関係の人に全部連絡しました。一つぐらいは「それは聞いてないですよ」みたいなことを言われると思ったんですけど、みなさん「おめでとうございます」と受け入れてくださって。産婦人科の先生には、軽くなら走ってもいいと言われていましたので、妊娠6カ月までゲストランナーもやってました。

少年院の教え子の作品=小林さん提供

――少年院で計算を教えるようになったきっかけはどんなことだったんですか?

小林: 現役を引退した2015年の秋口に、地元の少年院から「駅伝大会があるので、ランニング教室をしてくれませんか?」という依頼があったんです。それをやらせてもらったときに、少年院での計算指導について知りました。「10歳の壁」と言われるかけ算、割り算、筆算でのつまずきと非行に走ることには相関関係があって、少年院では計算能力も重視しているということを聞いて、すごく興味を持ちました。ちょうど計算指導の先生を探しているというので、数学の先生になるのが夢だった私は手を挙げました。

2016年から隔週で1回1時間教えるようになって、いまも続けています。17歳から19歳の子が多いです。最初は学力を上げたい一心で学校の先生を演じていました。でも彼らと触れあっていくうちに、もっと大切なものを教えてあげたいと思うようになりました。テレビの仕事で陸上選手の取材をしたときの話やオリンピックの話をしたり。「フルマラソンって何km?」って聞いたら、そもそも少数点が分かってない子もいて、そこから教えたりもしました。問題をつくるときは興味を持ってもらいやすいように、車を買う話にしたり、給料に例えたり、消費税の問題にしたり。

彼らに感じてほしいのは「オレ、できるやん」ってことですね。「楽しい」「できる」という喜びや感動があるように。小学校で習った計算を、たとえ17歳になってからでも、できるようになるってのは大きなことなんです。彼らの近くにいると、それが伝わってきます。一方で私は31歳になって、最近できるようになったことって何だろうと考えることがありますね。少年院のみんなから刺激を受けています。

――新型コロナウイルスの影響で、しばらく彼らにも会えませんでしたね。

小林: 4カ月間も授業ができなくて、彼らのことが心配で落ち込んでいました。そんなとき、最初の年に教えた子からメールが届きました。「4年前に小林先生に会って、僕はほんまに変わりました」って。少年院を出てから営業の仕事に就いて、ずっと続けているそうです。「彼女ができて結婚も考えているから、もっと仕事も頑張る」と。めちゃくちゃうれしかったですね。私にとって、ここ何カ月かで一番うれしい出来事でした。

長男が生まれたばかりのころ=小林さん提供

私も陸上で挫折したとき、人にも当たったし、監督のせいにもしたし、嫌なことを考えたりもしました。そんなとき、旦那が支えてくれた。人は、寄り添ってくれる誰かがいたら変われると思います。私の幸せはオリンピックに出られたことじゃなく、旦那がいて子どもがいることです。これは何事にも代えがたい。だから少年院の子たちにはいつも言ってます。「ここを出て、みんなはそれぞれの環境で暮らしていくことになります。パートナーをつくることは、どんな環境でもできるよ。そういう人が一人いるだけで人生は変わるで」って。

●小林祐梨子(こばやし・ゆりこ)さんのプロフィール
1988年12月12日、兵庫県小野市生まれ。小学校から陸上競技を始め、須磨学園高校(兵庫)3年のときに1500mの日本新記録を樹立。2007年に豊田自動織機へ入社すると同時に社内留学制度で岡山大学理学部に入学。08年の北京オリンピックで5000mに出場した。09年の世界選手権は5000で決勝に進んで11位。15年の引退後は結婚、出産を経て関西のテレビ、ラジオで活躍。20年7月に一般社団法人日本パラ陸上競技連盟の理事に就任した。

1971年、大阪府池田市生まれ。大学時代はアメリカンフットボールに没頭。1997年に朝日新聞に入社して以来、ほとんどの時間をスポーツ記者として生きてきた。