フィギュアの世界からフジテレビへ転身の中野友加里さん。「スケートの世界に貢献したい」と話す今

フィギュアスケーターだった中野友加里さん(34)は、3度の世界選手権代表になるなど世界を舞台に活躍しました。引退後、フジテレビに就職したことでも話題に。プライベートでは2015年に結婚し、現在は2児の母となり、2019年3月にはある決断をしました。新たな目標に向かう中野さんにお話を伺いました。

――フィギュアスケートを始めたきっかけを教えてください。

中野友加里さん(以下、中野):始めたのは3歳の頃。兄がアイスホッケー、姉がフィギュアスケートと冬のスポーツを習っていたこともあって、自然な流れでスケートに親しむようになりました。6歳で本格的に選手を目指すようになり、朝早くから練習をして、学校が終わったら母が運転する車でスケートリンクに直行という、スケート漬けの毎日を送っていましたね。

「限界ギリギリのところまで続けられた」

――20年以上に及ぶフィギュア人生でした。

中野:3歳でスケート靴を履き、24歳で脱いだのでフィギュアスケートとともに人生を歩んできたことになります。1つのことを継続してやり続けることは、やはりすごく難しいこと。私も途中で何度辞めようと思ったことか(笑)。でも、自分の生活の一部になっていたスケートが、まったくなくなってしまう怖さがありました。好きだからやり続けるというよりも、最終的には義務のようになっていたところはあるかもしれない。それでも限界ギリギリのところまで続けられたことはよかったと思いますし、その経験が今にも生きているのではないかなと感じています。

――まだまだ活躍できるのに引退されたという印象があります。

中野:フィギュアスケーターは一部の選手を除けば、大学や大学院卒業という節目で現役生活にピリオドを打ち、一般企業や会社に就職する方が大半です。体がボロボロになったり、怪我をして、「もう、いいんじゃない?」と思われるよりも、「まだやれるんじゃない?」と周囲の方々に言っていただける段階で引退できて、私はよかったと思っています。

――引退を決断した最も大きな理由は何だったのでしょうか。

中野:22歳だった大学4年のときは好調で、まだまだやれると思っていました。だから大学院へ進学することを決意し、勉強をしながらスケートを続けていました。ただ、成績が下降し、ケガも増えてしまい、体力的にも徐々に厳しくなっていきました。一番良い時期の自分を超えられないし、これ以上のパフォーマンスを見せることはできない」と大学院にいた23歳頃には感じ始めていたんですね。修了後はすでに就職も決まっていたので、2009-2010を現役最後のシーズンにしたんです。

フィギュアスケートの経験 いきた生放送

――現役引退後はフジテレビに就職されました。それまでとはまったく異なる環境は大変だったのではないでしょうか。

中野:社会人1年目は、プライドがボロボロでしたね(笑)。よく家でも泣いていました。
まず、先輩が言っている業界用語が理解できなかった。それに、先輩が話したことを紙に書き留めても言葉の意味が分からないので、結局、どうにもできないというパニック状態に陥っていました。それでも負けず嫌い精神が発動したのか、必死にくらいついていましたね。
最初に配属されたのは映画事業局だったのですが、映画、ドラマなど様々な作品に関わることができました。会議室のセッティングや差し入れの発注など簡単な仕事から始まって、1年目で映画のアシスタントプロデューサーとなり、2年目で『踊る大捜査線 THE FINAL』を担当し、企画、撮影、宣伝と幅広く仕事を経験することができました。
その後、2012年からはスポーツ局に配属され、『すぽると!』のアシスタントディレクターになりました。夜遅い時間の放送だったので、昼夜逆転の生活に慣れるのが大変でしたね(笑)。
ただ、実際にやってみると、生放送はフィギュアスケートに通ずるものがたくさんありました。たとえば、大会本番でミスをした場合、その後どう補っていくのか、頭の中で計算しながら様々なパターンを考えなければなりません。生放送の番組でも同じで、事前に構成を立てていても速報が入ったり、ニュースが間に合わなかったりした場合は、機転を利かさなければなりませんでした。スケートの経験がいきた場所だったかもしれません。

――2015年にはご結婚され、お子さんも誕生されました。変化はありましたか。

中野:選手の頃はほとんど泣くことがなかったんですが、子供が生まれてから自分でも驚くくらい、涙もろくなりました。たとえば、以前は自分が携わっていたドラマや映画を観て泣くことはなかったのに、今はあっとういう間に涙が出る(笑)

――憧れだったフジテレビを2019年3月に退社されました。

中野:第一子を出産した後は生後7カ月で職場に復帰したのですが、ある日、自分が気付かない間に子供が成長していることにふと気が付いたんです。やっぱり子供の成長過程を見たかった思いが強かった。このままでは知らない間に大きくなってしまうと思い、主人と相談して退社することを決めました。もう少し仕事の幅を広げ、様々なフィールドで仕事がしたいと考えたのもあります。

やっぱり「フィギュアスケートに携わりたい」

――大切にされていることがあれば教えてください。

中野:時間を捻出するのが難しいからこそ、一人の時間を大切にするようになりました。子どもが眠った20時過ぎから片付けた後が自分の貴重な時間です。大好きなドラマや映画を観てリラックス。3年前からは空いた時間を利用して、医療事務やヨガインストラクター、お菓子のインストラクターなどの資格の取得もしました。勉強しているうちに資格を取ることが楽しくなってきました。
コラムの執筆やインタビュー、講演会のお仕事もさせていただいています。大変と思いながらも、楽しみながらやっていますね。主人も「好きなことをやっていいよ」と理解があります。私はのめりこんでしまうタイプなので、子育ても家事も手を抜くことが下手。それをうまく主人がコントロールしてくれていて、まるでフィギュアスケート時代のコーチのようです(笑)。

――公私ともに充実されている中野さん。今後、新たに挑戦されたいことはありますか。

中野:今は何よりも育児優先ですが、可能な限り合間を縫って、いろいろとお仕事をさせていただきたいと思っています。フィギュアスケートの審判の昇格試験の勉強もしています。「選手だったから簡単なのでは」と思われるかもしれませんが、選手は頭で理解して実践しているので、意外と難しいものです。
今の資格は国内の地方大会で審判ができるジャッジ。目標の全日本選手権での審判席に到達するまでには、まだまだ時間はかかります。21年間やってきたので、「スケートの世界に携りたい」「貢献したい」という気持ちが強いんです。距離を置いていましたが、戻ってきてしまいました。

●中野友加里(なかの・ゆかり)さんのプロフィール

1985年生まれ、愛知県出身。3歳からフィギュアスケートを始め、2010年3月に引退。4月にフジテレビに入社し、映画事業局に配属。『アンフェア the answer』『踊る大捜査線 THE FINAL』などでアシスタントプロデューサーを務め、2012年にスポーツ局へ。2015年に結婚し、2019年3月に退社。現在はスポーツコメンテーターなどとして活動している。

写真家。1982年東京生まれ。東京造形大学卒業後、新聞社などでのアシスタントを経て2009年よりフリーランス。 コマーシャルフォトグラファーとしての仕事のかたわら、都市を主題とした写真作品の制作を続けている。