人種差別や誹謗中傷はどうすれば止まる? キーワードは「ルシャトリエ」

新型コロナウイルス感染症による緊急事態宣言が解除され、徐々に日常を取り戻しつつある今、世の中では誹謗中傷や人種差別など、新たな問題が浮かび上がってきています。そこで今回は、telling,でもおなじみの工学博士であり生粋の理系男子である“尾池博士”が「ルシャトリエの原理」や「粒子の平衡状態」などを例に、人種差別や誹謗中傷を止める方法を教えてくれました。

匿名性だけが原因ではない 

急な環境変化は人の本性をあぶりだします。今回のコロナ禍はまさにそうです。攻撃的になりやすい人と、攻撃にさらされている人が見えやすくなりました。普段は声をあげにくい著名人が私たち以上に勇気を振り絞って声を上げたのに、それに対し過激な誹謗中傷が浴びせられました。それによって悲惨な結果も生んでしまいました。

また人種差別が根深いアメリカでは白人警官による黒人殺害事件が起き、過激なデモに発展しました。日本でも警官から威圧的な職務質問を受けたと主張するクルド人を守ろうと人々が警察署へ押しかけ小競り合いになりました。

こうした誹謗中傷や人種差別について匿名性や集団心理を問題にする意見があります。個人が特定されにくい場合に過激化しやすいと。私も以前は強くそのように考えていました。

たしかにその一面は否定できませんが、かといってネット上で実名を強いるのはおかしな話です。匿名性は実社会においても社内告発などでとても重要な権利です。個人特定のハードルを安易に下げる法改正は危険です。

突き詰めれば人間性の問題ですので、匿名実名というより一人一人の問題です。アメリカの乱暴な警官は監視カメラが回っていることを知りながら過激な行動をやめませんでした。誹謗中傷も発信者の乱暴な本性が表れているだけです。同じように一見よい行動に見えるデモも歪んだ正義感が紛れていれば暴徒化します。結局そこに見えてくるのは、乱暴な人と乱暴でない人のせめぎあいです。

人間同士の「激しい反応」

人間は心がある動物と言います。たしかにそうです。しかし遠くから見ればビーカーの中の化学物質のようにただ反応し合っている粒子に過ぎない面もあります。

そのため集団だと急には止められません。地球温暖化のCO2も止められずにいますし、コロナ禍でも3月中旬にはすでに緊急事態宣言が避けられないグラフを描いていましたが、オリンピックの中止が決定したのは下旬でした。

であれば人間が人間らしさを発揮できるのは「予測」だけです。そのため新型コロナウイルス感染症専門家会議は政府が「人との接触を7から8割減らす」と言った時にすぐ「8割です」と訂正しました。7割ではグラフを変えることができないことを予測していたからです。

では人種差別や誹謗中傷を止めるには人間同士の反応をどのように予測し、何をすればいいのでしょうか。そのヒントが高校のなつかしい授業で出てきた「ルシャトリエ」にありそうな気がします。

「ルシャトリエの原理」は人間社会にも当てはまる

アンリ・ルシャトリエは19世紀のフランスの化学者で、Wikipediaでは「人格者として知られる」とも紹介されています。たしかにそんな意志の強そうな顔つきをしています。ルシャトリエはビーカーの中で起きている化学反応について次のように言いました。

「化学反応が平衡状態にあるとき、外部の条件(温度や圧⼒や濃度)を変えると、その変化を緩和する⽅向へ平衡が移動し、新しい平衡状態となる」

平衡とは難しい漢字ですが、天秤が平行を保っている様子の事です。天秤の場合、右の皿を重たくすると右が下がってしまいますが、それは軸が中央から動かないからです。軸が勝手に右に動いて新しい平行状態ができる、なんてことはありません。

しかしルシャトリエはある時「化学反応の軸は動く」と突拍子もないことに気がつきました。化学反応はいつも平衡を保とうとする。そのため条件を変えると新しい力が働いて新しい平衡状態(安定状態)を作り出す。それが粒子同士の反応である、と言いました。

人間社会も間違いなく同じです。普段は無数の粒子の反応が平衡を保っています。ある程度の不満を抱えつつもとりあえず安定しています。しかしある変化が生じると軸が移動し新しい安定状態を作ります。

それが冒頭の乱暴な人と乱暴でない人のせめぎあいですが、新たな安定状態は何が決め手になるのでしょうか。

「支配的な粒子」が新しい安定状態を作るから、声を上げよう

当たり前のことですが、力を持つ粒子が変化を支配します。粒子の力とは反応性であったり熱量だったりします。粒子の持つ力によって新しい平衡状態が決まります。熱力学ではこの力の作用にかっこいい名前をつけていまして「自由エネルギー(Free energy)」と呼んでいます。どこまで変化できるのかという潜在的な仕事能力です。

平衡移動した後も乱暴な社会のままにするのか。あるいは乱暴ではない新しい平衡状態を目指すのか。それはどちらの集団の熱量が大きいかによって左右されます。

しかし乱暴ではない人々の最大の特徴が、熱量の小ささです。小さいだけでなく、熱量を上げるのにも時間が掛かります。声を上げた著名人に対し、声を上げたこと自体をたしなめる人がいました。また誹謗中傷から守りたい一心で声を上げようとする友人を止めようとする人もいます。しかし熱量を上げようとする「乱暴ではない丁寧な人々」の自由を奪えば何も変わらないどころか、乱暴な人々の瞬間湯沸かし器的な熱量に勝つのはとても無理です。

私たちは今回のコロナ禍で社会は変えられることを実体験しました。お肉券、給付金、在宅勤務。これまで潜在的に「こうだったらいいな」と感じていただけだった希望が、声だけによって現実のものとなりました。自由に発言し熱量を上げることで、社会を変えることができました。

乱暴ではない社会を望むのであれば、乱暴な人たち以上の熱量を丁寧に叩きつけるしかありません。丁寧に叩きつけるには、自由に発言するしかありません。アトランタ州の女性警察署長はデモ隊の前に歩み寄り、冷静な対話を望み、同じ立場での社会の変革を訴えました。「一緒に変えましょう」と。アメリカのデモは徐々に冷静さを取り戻し、説得力を増しています。

人間はたしかに粒子に過ぎません。しかし粒子との決定的な違いは、自由に熱量を上げることができることです。冷静で丁寧な言葉を選ぶ乱暴ではない人こそ、有事の際には最大音量で声を上げるべきです。そうすれば、人種差別と誹謗中傷は必ず減らすことができます。絶対にです。

工学博士/1972年生まれ。九州工業大学卒。FILTOM研究所長。FLOWRATE代表。2007年、ものづくり日本大賞内閣総理大臣賞受賞。2009年、PD膜分離技術開発に参画。2014年、北九州学術研究都市にてFILTOM設立。2018年、常温常圧海水淡水化技術開発のためFLOWRATE.org設立。
イラストレーター・エディター。新潟県生まれ。緩いイラストと「プロの初心者」をモットーに記事を書くライターも。情緒的でありつつ詳細な旅ブログが口コミで広がり、カナダ観光局オーロラ王国ブロガー観光大使、チェコ親善アンバサダー2018を務める。神社検定3級、日本酒ナビゲーター、日本旅のペンクラブ会員。