私、セクハラ被害者になりました【特別編】

セクハラ被害から1年。アパレル社長への「寛大処分」に思う日本企業の変わらぬ体質

取引先の社長からセクハラ被害を受けた雅美さんの手記「私、セクハラ被害者になりました」。昨夏のtelling,での連載は、大きな反響を呼びました。雅美さんが被害を受けてから1年。世間では有名アパレル会社の社長の問題が報じられましたが、社内の調査で「セクハラがあった」と認定されなかったことなどが物議を醸しています。こうした状況に対して、雅美さんが現在の思いをつづりました。

少し前、某アパレル会社の社長が女性社員をホテルの自室や食事に誘うなどし、それが「従業員との距離が近すぎる」として厳重注意を受けたというニュースがあった(社長はその後、辞任)。一方で社内で行われた臨時査問会では「セクハラ行為はなかった」との結論が出されたという事実も同時に報道され、大問題となった。

このニュースを見て、私は1年前に自分に降りかかった出来事を思い出さずにはいられなかった。「セクハラはなかった」「そんなつもりはなかった」。いつも加害者はそう言いわけするが、大事なのは加害者の気持ちではない。

1年前の事件の記憶に苦しめられる

1年前、メーカーで営業の仕事を担当をしていた私は、地方の有力な取引先の社長であるA氏からセクハラを受けた。接待の帰り、私が宿泊しているホテルに行きたいとごねられ、その道中にボディタッチやキスをされた。

ことの顛末については「私、セクハラ被害者になりました」を読んでいただきたい。なんだかんだあり、メンタルを崩していた私は会社に復帰。私は営業担当から外されたものの、A氏の会社との取引は何事もなかったように続いていた。A氏の会社の親会社への働きかけもしたが、A氏へはなんの処分もなく、彼の下で働く社員はそんなことがあったと知ることすらなく、これまでと変わらず勤務しているそうだ。

当時はそのこと自体に憤慨し、勤め先の会社に対して「社員を守る気がない!」と声を上げていたが、温度差のある上司に怒り続けるのにも疲れ、なるべくA氏の情報に触れないように過ごしていた。最初は気を使ってくれていた同僚も、ふとした瞬間にA氏の名前を私の前で口にするようになり、そのたびに私は傷ついていた。でも「いつまで被害者ヅラするの?」と思われるような気がして、傷ついているのを隠すようになった。

いつまで被害者ヅラするのか、と聞かれたらこれは一生そうなんじゃないかと思う。普段は忘れていても、似ている人を見たらフラッシュバックしたり、A氏の会社名を聞くと吐き気がしたり、そういう反応が落ち着くのはもっとずっと先だと思う。出張先だった県に行くのもはばかられるし、「気にしなかった頃に戻れ」というのは無理だと思う。

まだA氏が地方の取引先の人間だったから普段の生活では忘れていられるけれど、これが同じオフィスで働く人間だったらと思うとゾッとする。

無視される被害者の「嫌だった」という感情

被害者の立場から言わせてもらうと、セクハラに関して相手が反省しているかどうかとか、悪気があったかなかったか、とかはあまり意味がない。事実として、被害者側は怖かったし傷ついたということを認めて対応して欲しいだけだ。一度は恐怖に震えた相手のことを、また信用して仕事をしろという難題を、なぜ被害者側ばかりが強いられるのだろう。

今回、問題になった某社で「セクハラはなかった」と結論を下した査問会が無視しているのは、「セクハラされたと感じ、傷ついている社員」の存在だ。セクハラが客観的にあったかなかったかではなく、被害感情があり、それが自社の社長であるという絶望感に襲われているであろう彼女たちはこの結論を聞いてどう思うだろうか。その想像力が欠如している。

私は事実はどうあれ、その姿勢がもう許せないなと感じたし、某社の商品を買いたくないなと思った。ネット上には同じような意見が溢れていて少し救われた気持ちになったが、会社という組織は目の前の一般社員より役員や取引先を大切にする行動が常態化しすぎている。

目の前の社員を大切にするだけ

某社の保身的な行動が結果として世論を炎上させた。地位のある人物のセクハラをかばうような動きはカスタマーの不信を買うということが示されたので、今回の炎上には意味があったと考えている。日本の企業の幹部たちには、目の前にいる一般社員を大切にすることは、世の中のほとんどのお客さんを大切に扱うことだということに気付いて欲しい。

私、セクハラ被害者になりました