【ふかわりょう】 のりしろを守る会
●ふかわりょうの連載エッセイ「プリズム」45
のりしろを守る会
クリスマスソングに乗って「忘年会スルー」という言葉が踊っている令和元年の師走。会社の飲み会や付き合いというものの是非が問われている昨今、標的となるのも必然かもしれません。忘年会や新年会。終身雇用が幻想となったいま、絆だとか輪だとかを会社に求める時代ではなくなり、「こんな会社やめてやる」と内に秘めながら宴に参加する者もいるでしょう。
ゴルフや飲み会などに積極的ではないので、どちらかというと付き合いの悪い方ですが、忘年会・新年会にはなるべく参加しています。そんな私が以前から危惧していることがあります。それは、「のりしろ」がなくなってしまうことです。
「のりしろ」。それは、糊付けする部分。それがあることで、二つの面がその面積を損ねることなく連結できる。あまり日の目を見るものではないですが、とても重要な役割を果たしています。では、社会における「のりしろ」はどうでしょう。時代とともに、着々と希薄になっている気がします。
「お店の従業員が、掃除をせずに帰ってしまう」
そんな声を耳にしたことがあります。「掃除をする為に雇われたわけではない」と。雇う側が掃除をさせることを当然と思ってはいけないかもしれませんが、前述のような理由では、「授業に関係ないから」と学校の掃除をせずに帰る子供と同じ。残業しすぎもどうかと思いますが、定時以外は一切関わらないというスタンスにも、好きなものばかり食べる子供と重なります。
収録前。一旦別室に集まって談笑する時間を設けることによって、本番でのパフォーマンスが高くなります。収録後の飲み会では、他愛のない話から新しい発想や繋がりが生まれたりします。どちらも大切な「のりしろ」。国家元首が会談の前にゴルフをするのも「のりしろ」。規定時間に高いパフォーマンスを発揮するためには、「のりしろ」が必要なのです。余計なものだと決めつけて排除しては、接着面が不安定で、すぐに剥がれてしまいます。
美術館に行くと、作品の間にはしっかりと空間的な余裕があります。絵画と絵画の間にある「のりしろ」。もしも、それらを無くして、空間の余白もなく、作品をただ並べただけでは、絵画の価値も薄れてしまいます。
結局のところ、昨今の「忘年会スルー」にも見られる個人主義は、利己的な人間ばかりを生んでしまったようです。「ダイバーシティー」の副作用。「一人で生きている」と錯覚する引きこもり。
これだけグローバリズムの時代にEU離脱を決めた、どこかの国の人々のように。
我々は、可視化されたものばかりに心を奪われて、見えないものの大切さを見落としてしまう。為になるとかならないとか、役に立つとか立たないとか、そのような尺度だけで生きていると、人間としての器が小さくなってしまいます。一見無駄に思えても、意外とそうではなかったりするもの。逆に、非効率なものを排除し、効率性だけを推進していくと、結局苦しむのは私たち。
社会から「のりしろ」が削ぎ落とされてゆく風潮に、どこかで歯止めをかけなければと思い、この組織を発足させました。私は、のりしろを守ります。それでは、メリー・クリスマス。良いお年を。
のりしろを守る会 代表 ふかわりょう
タイトル写真:坂脇卓也
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