【ふかわりょう】挨拶の代わりに。
料理というほどではありませんが、野菜炒めが好きでときどきつくることがあります。キャベツ、にんじん、玉ねぎ、ピーマン。最近ではすでにカットされているものが売られているので、料理下手な私でも楽チン。もちろん、食べるのも好きですが、観るのが好きなのです。野球観戦ならぬ、野菜観戦。
フライパンからあふれそうなくらいに盛られた野菜たちが、ジュージュー炒められて、音を立てながら「しんなり」してくるあの感じ。あんなにシャキッとしていたのに、あんなに山盛りだったのに。ほどよいサイズに収まって、すっかりやわらかそうになってゆく。 あんなに硬かった芯さえも。
私は、その姿に人生を重ねているのかもしれません。
誰しも、若いときは尖っているもの。若気の至り。それはそれで必要で、大切な時期。私が恐れを抱かずこの世界に飛び込めたのも、それがあったからこそ。
けれども、社会に出てみれば、思いどおりにいかないのが世の常。思いもよらぬ、風当たり。やはり世間は甘くありません。また、いつまでもちやほやされているわけではありません。若い頃はずっと続くと信じていますが、やがて甘い汁を吸わせてもらえなくなります。しかし、寒い冬を越えると糖度を増すように、世の苦みを味わった者は、優しさを手に入れるのではないでしょうか。
芸能界もそう。駆け出しの頃は、自分のことしか考えず、非常にガツガツしています。尖っていることが格好いいと思ったり。しかし、世の中に揉まれて、苦痛を味わって、徐々に丸みを帯びてくる。周りに気を配るようになる。そのとき初めて、人間としての深みや味、魅力が出てくるのでしょう。
ちやほやされなくなってからが勝負。本来の魅力が試されるとき。熱を加えられ、炒められて得た、しなやかさと優しさは、もう失うことはないでしょう。
だから私は、シャキシャキのレタスより、しんなりした野菜炒めが好きなのです。
挨拶の言葉にかえて。
タイトル写真:坂脇卓也