本という贅沢72『蜜蜂と遠雷』(恩田陸/幻冬舎)

一瞬のために生きる。でもその一瞬は、起承転結のどのあたり?

毎週水曜日にお送りする、コラム「本という贅沢」。10月のテーマは「○○な秋」。ちょいと人恋しく、むやみに芸術ぶりたいこの時期におすすめの本を、書籍ライターの佐藤友美(さとゆみ)さんが紹介します。
『蜜蜂と遠雷』(恩田陸/幻冬舎)

「あの瞬間」を一度体験してしまったら、それまでの苦労が全部報われる。
「あの瞬間」をもう一度体験するためなら、なんでもしようと思う。
そんな瞬間は、人生に何度くらいあるのだろうか。

私自身はこれまで二度あったように思う。
一度は、15歳の時、スポーツで。
もう一度は40歳のとき、ある物語の第9章を書いているときに。
「この時間があと少し長く続くのなら、負けてもいい」と思ったし、「この時間があとちょっとだけ続くのなら、本にならなくてもいい」と思ったほど、圧倒的な体験だった。その時のかすかな記憶だけで今も、人生を肯定できていると言えるほどの幸せだった。

「あの瞬間」を実際に体験することは、人生に何度もないのかもしれない。ひょっとしたら一度も体験できないのかもしれない。
けれども私たちは、「あの瞬間」を今まさに体験している当事者を目撃することで、その感動の余波を受け取ることができる。
たとえば、私たちはアスリートやアーティストの「あの瞬間」に立ち合いその恩恵を受け取るだけで、人生が爆発的に豊かになる。それくらい「あの瞬間」のパワーは強くて、魅力的で暴力的だ。

『蜜蜂と遠雷』は、「あの瞬間」にいたる当事者たちと、それを目撃するものの物語だ。何かに人生を賭ける意義と、それが成就する瞬間の豊潤さは、この本のテーマのひとつである。

小説に登場するのは、あるピアノコンクールに集う人たち。コンテスタントとその指導者。審査員と聴衆だ。
「あの瞬間」をまさに今経験するもの。
「あの瞬間」を思い出すもの。
「あの瞬間」の到来を確信するもの。
「あの瞬間」が日常であるもの。
「あの瞬間」に手が届きそうで届かないもの。

この本はよく、「天才と天才じゃないものの物語」と評されるし、その通りなのだと思うけれども、私はそれ以上に、「知ってしまったもの」の幸せと哀しみ、「知らざるもの」の哀しみと幸せを背中合わせにする物語だと感じる。
過去に至高の時間を知ったものは、それを再現できないことに苦しむ。
今まさに知ってしまったものは、これ以上に人生で実現すべきことがないように思って苦しむ。
そして、知らないものは知らないことに苦しむ。
苦しみながらも、手を伸ばさずにはいられないから、より苦しい。

そしてひとつ確実に言えることは、彼らの人生は、このコンクールのあとも続くし、私たちの人生も、この本の読了後にも続く。
この物語は、彼らの(私たちの)、人生でいえば起承転結のどのあたりなんだろう。ひょっとしたら、始まったばかりなのか、それとも、終わりに近づいているのか。そんなことを考えながら読むのも楽しい。多分、10年後の私は、この本を開いてもまた、違った物語と出会うのだろう。

本来であれば、苦悩なしにやすやすと体験できない瞬間に、当事者たちといくつもの旅を伴走することで、立ち合わせてもらえる。こんな経験、しない手はないと思う。

400ページ超の長い物語だけれども、人生の長さに対して考えると一瞬で読めてしまう本だし、それでいて人生の長さにずっと伴走してくれる息の長い作品だと感じます。私は3回読みました。これからも読みそうです。

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映画版『蜜蜂と遠雷』公開に合わせて発表された、後日談というか、スピンオフ的位置付けの短編集、『祝祭と予感』は、より強く「いまは人生の起承転結どのあたり感」を感じます。私は、中でも「春と修羅」誕生の物語が好き。

映画の中では、この「春と修羅」が実際に作曲され、4人の演者に演奏されています。4人の主演がすばらしすぎる。そしてそれぞれのカデンツァ(即興部分)の演奏も、見どころというか、聴きどころのひとつです。小説にしかできないことと、映像にしかできないことの、双方が際立った映画でした。
映画を観たあとに本を読み返すと、映画の配役の音でしか音楽が聴こえてこなくなるので、両方楽しみたい人は、小説→映画→小説でいくと、フルコースで楽しめると思います。
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それではまた来週水曜日に。

ライター・コラムニストとして活動。ファッション、ビューティからビジネスまで幅広いジャンルを担当する。自著に『女の運命は髪で変わる』『髪のこと、これで、ぜんぶ。』『書く仕事がしたい』など。