【ふかわりょう】水無月日記
●ふかわりょうの連載エッセイ「プリズム」32
「とりあえず、Wi-Fiは繋がってるから」
夫婦でスマホに買い替えたものの、使い方がいまいちわからないからと、救援要請を受け横浜の実家に帰った梅雨の日。僕が使用している機種と違うため多少手間取ったものの、どうにか設定できました。
「これって、いつの写真だっけ?」
タンスの上の孫たちと並ぶ、家族5人の写真。中学卒業のタイミングで訪れた香港。もう30年ほど前になります。世界中を飛び回っていた父にとってはもはや近所に出かけるくらいの感覚だったかもしれませんが、僕にとっては初めての海外旅行。
「なんか、すごい……」
当時15歳の少年が目にしたのは、日本では見ることのなかった、金色に光る高層ビル群と、その間にぎっしりと埋め尽くされる車の列。クラクションがひっきりなしに鳴り響く、大きな一方通行の道。これを都会的と言うのか、勢いと言うのか、とにかくものすごいエネルギーに、アジアを実感しました。
接点といえば映画くらい。強い関心があったわけではないので、連れていかれる場所をただ受け入れるしかありません。
「今日は小雨なので、10万ドルぐらいですかね?」
添乗員のこなれたガイドを聞きながらたどり着くビクトリア・ピーク。普段は100万ドルとのことですが、それでもかなりの夜景が望めました。
「対岸に見えるのが九龍です」
大きなレストランで北京タッグ。マカオでカジオ。どこも蒸し暑く、15歳の少年にとって香港旅行を楽しむには、まだ経験が浅かったような気もします。
「返還まで、あと10年です」
返還にまつわるポスターが掲げられています。香港はイギリス領。マカオはポルトガル領。歴史でなんとなく習っていたかもしれませんが、当時の僕には、返還されるとどうなるのか、あまりピンと来ていません。実際、マカオではポルトガルの空気は感じましたが、香港ではイギリスを感じる要素はありませんでした。
高級時計の写真のファイルを手に近寄ってくる地元の人たち。街の喧騒。ブランド品を模したものが安く売られていることも、当時の香港らしさでもありました。
「もう30年経つのか……」
当時、返還を歓迎する者もいれば、国外への逃亡を企てる富裕層もいたでしょう。あれから30年。小さな画面の中で、あの日車で埋め尽くされていた場所に、多くの人々の波が押し寄せています。
「なにこれ?」
玄関で母が紙袋を渡してきました。
「いらないよ」
「いいから持っていきなさい」
大量の木炭。これを部屋に置いておくと、湿度が調整されるそう。そういえば、いつ頃からか、炊飯器だったり、部屋の角だったり、実家の至る所に炭が置かれるようになりました。
「時々、天日干しすれば、ずっと使えるから」
大量の木炭を積んだ車は、東京に向かいました。
タイトル写真:坂脇卓也
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第1回【ふかわりょう】水無月日記
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