【連載#3:松村未央の毎日が末広がり】「ごめん」「またか」・・。2度にわたる夫(陣内智則さん)のコロナ感染で、「家族の絆は深まりました」

報道番組などに出演するフジテレビアナウンサーの松村未央さんは、2017年にタレントの陣内智則さんと結婚。翌年に第1子となる女児を出産しました。夫の陣内さんとの夫婦の関係や、キャリアと家事・育児の両立――。松村さんが日々、感じたり、考えたりしていることを率直に語るコラムを、毎月第4土曜日にお届け。今回はコロナ下の生活についてです。夫の陣内さんはコロナに2回、感染して……。
【連載#2:松村未央の毎日が末広がり】「仕事がんばって。協力する」 夫(陣内智則さん)の保育園送りで始まった私の“本格始動”

新型コロナウイルス対策のマスク着用ルールが緩和され、3月13日から着用が、個人の判断に委ねられるようになりました。次第に日常が戻りつつありますね。今回は様々なことがあった我が家の、この3年を振り返ってみたいと思います。

コロナが日本国内でも感染拡大し始めた2020年の初頭。私はちょうど18年の秋から取っていた産休・育休から復帰しようと考えていた頃でした。4月中に仕事に戻ろうと考えていましたが、娘の通う保育園が休園になったり、初の緊急事態宣言が出されたりして。事情を考慮してもらい、復職をずらしました。

私は結局、7月にアナウンサーに復帰。夫(陣内さん)も人前に出る仕事なので、家庭内での感染対策は強く意識していました。手洗い・うがいは徹底し、外出から帰ってきたらすぐに部屋着に着替える。夫は外食をしないようにもなりました。一方、私の復職と同時に保育園に入園した当時1歳だった娘は、まだ小さくてマスクを着用できないうえに、集団生活だったので少し心配でした。

コロナ前は、夫は仕事で帰宅が遅く、夕食は娘と2人ということも多かった。それが、第1波の頃はスタジオ出演がリモートになったり、ロケがなくなったりして、家にいるようになりました。朝・昼・夕の3食とも基本的には3人での食事。とても新鮮で毎日、「何を作ろうかな」と献立決めが、楽しかったです。

PCR検査で「陰性」の数日後に・・・

しかし、そうこうしてコロナ下の生活にも慣れてきた翌21年の7月、家族に感染者が出ました、それは夫。当時はロケやスタジオ出演も次第に戻っていた時期。仕事柄、検査は頻繁に受けていて、それまでは大丈夫でした。7月の感染が発覚したときも、その2日前のPCR検査では「陰性」。ただ、その日は「発熱した気がする」と言い始めて、すぐにPCR検査を受けたんです。直前まで楽しそうに娘と遊んでいたのに、結果を知らされる電話が掛かってくると、表情がどんどん暗くなって、「ごめん。陽性やった」。

そこからの行動は早かったです。誰とも接触しないように、自身のYouTubeチャンネルの撮影用のスタジオとして借りていた部屋に移動。大きな紙袋に数日分の着替えと食料などを入れて行きました。

保健所から連絡があり、私と娘も後日、PCR検査を受けることになりました。“すぐに”ではなかったのは、潜伏期間などの関係。夫の感染判明から4~5日後に検査をしたのですが、我々も人と接触しないように気を付けて、検査をする医療機関まで行きました。
鼻の奥に細い綿棒を入れられるのは私も苦しかったですが、当時2歳だった娘は大泣き。結果は2人とも「陰性」。体調も問題はなかったのですが、当時は濃厚接触者も2週間は待機して、人と接触してはいけないルールでした。

隔離生活中の夫とのコミュニケーションはテレビ電話が中心。それすら少し長くなると、辛そうな様子で、とても心配でした。それでも、テレビ電話をしないと状態がわからなくなるので、毎日していました。元気になってもらいたくて、娘から画面越しに「がんばって」と声をかけて……。

パルスオキシメーターで血中の酸素飽和度を測ると、95%を切ることもあったそう。一般に軽症は酸素飽和度が96%以上、93~96%は中等症Ⅰ。高熱も続いていたし、長引いてもいたので、入院した方がいいのではないかと思いましたが、手続きが煩雑だったり、すぐにできるかもわからなかったりで、隔離生活を続けました。

大車輪の活躍だった私の両親

私と娘も濃厚接触者で、外出できなかったので、横浜にいる私の両親が、隔離生活を送る夫と、自宅で待機する私たちの世話で、大車輪の活躍。車で家に寄ってもらい、私たちが必要な食料などを置き配。そして、夫が隔離生活を送る部屋にも同じように置き配。私が作ったお弁当を夫に差し入れてもらったこともありますが、双方と接触しないように、私が家の玄関前に置いておいたお弁当を、両親がピックアップして、夫がいる部屋の前に置く――。
夫のところにはほかにも、友人がたくさん必要なモノを持って行ってくれました。私にも友人から「困ったことがあったら、何でもするよ」と連絡がありました。頼れる人がいることは、本当にありがたかったですね。

自宅にいる私は、夫のことがとにかく心配でしたが、元気なのに2週間家から出られないことにも困りました。外で遊びたい盛りだった娘も事情を察していたようで、わがままは言いませんでしたけどね。
時間はあったので、ネットで買ったおもちゃで遊んだり、絵本を読んだりなどして過ごしました。意外に活躍したのはビニールプール。夏場だったので、ベランダにビニールプールを置いて遊ばせたら、娘はとても気に入って。また、キャンプ気分を味わおうと、ベランダや室内にテントを張って、その中でお人形と遊んだり、食事をしたり、飽きさせないよう工夫して過ごしました。

私としては仕事を2週間、休むというのも心苦しかったですね。レギュラー番組などは代行を立ててもらうしかないですから。それでも会社からは「申し訳ないと思わないで」と言われて、だいぶ救われました。

兵庫県に住んでいる夫の両親、特に、お母さんは本当に心配していました。夫と連絡が取れないときがあることを不安に感じて、しょっちゅう私に電話が来ました。とはいえ、私も一緒にいるわけではないので、お母さんには容体を伝えて、夫には「お母さんに電話やメールをして」と伝えることくらいしかできなかったです。

感染発覚から10日間ぐらいは、苦しんでいた夫ですが、次第に熱も下がってきて回復傾向に――。延期になった東京五輪がこの時期にあり、テレビで見ることで随分、気分転換になったようです。

結局、夫の療養期間は14日で終わることになりました。隔離最終日には「鰻重を食べたい」というリクエストがあったので、せっかくだからと奮発して“特上”の出前を手配し、置き配してもらったんです。感想を聞いたら「味はちょっとわかんなかった」と……。(笑)
夫が家に帰ってきたときには、テレビ電話で顔は見ていたので、私も娘も泣くことはありませんでしたが、「お帰りなさい」と大歓迎しました。

2022年3月に「熱っぽい」と言い出して・・・

同居している家族なのに、私が感染しなかったのは、家の中でも基本的にマスクを付けるように意識していたことや、普段から洗面台や歯磨き粉などを別にしていたからでしょうか。夫が回復してからはより、感染対策への意識は高まりました。

しかし、迎えた22年3月のある日。その日は午前中に友人家族とで公園で遊んでいて、夫は午後に仕事へ。それが、夕方に帰ってきたら「熱っぽい」と言い出し、すぐに検査をしたら「陽性」。「またか」と本人も言っていましたが、2回目なので慌てることはありませんでした。

1回目の隔離の当初に無かった布団は部屋に運び済でした。対応方法もわかっていたので、流れ作業のように各所に連絡。夫は再び隔離生活に入りました。変えたところと言えば、反省を生かして、タオルや着替えを多めにしたことくらいです。私と娘が「陰性」というのも初回と共通していました。

2回目は熱こそ出ていたものの、1回目より症状が重くなかったので、夫に連絡するとすぐに返事がありました。熱も1週間程度で下がり、10日ほどで家に帰ってきました。
このときも活躍したのは、私の両親。生活に必要なものを運搬してくれました。夫の両親とも、頻繁に連絡を取り合いました。コロナに2度も罹ったのは大変でしたが、家族の絆は深まったと思います。

咲く桜に“背筋が伸びる感じ”

5月8日に、新型コロナウイルスの感染症法上の位置づけも5類に変更になります。次第に戻る日常――。4歳の娘がキャンプに行きたいと最近言っているので、まずは家族でキャンプに行きたいです。友達家族とバーベキューもしたいし、海外旅行もそのうちに。コロナ禍の直前の2020年の1月に家族でハワイに行ったことがあるのですが、そのときの娘は1歳。パスポートの写真の顔とも随分、変わりました。本当に成長は早いですね。国内だったら、沖縄の海に行きたい。いろんなところに行くことは財産になるので、娘には経験させたいです。

全国各地で桜の開花が進んでいます。桜を見ると、気分が明るくなりますし、新学期や新生活の訪れを予感させます。背筋が伸びる感じもしますし、私も入社当時を思い出し、初心に返ろうという意識にもなります。4月には新しく入ってくる仲間もいるので、一緒に楽しく仕事ができたらと思いますね。

【連載#2:松村未央の毎日が末広がり】「仕事がんばって。協力する」 夫(陣内智則さん)の保育園送りで始まった私の“本格始動”
横浜市出身。慶応大学法学部卒業後の2009年、フジテレビに入社。現在は「めざましどようび」内のニュース、「FNN Live News days」(土曜)、「めざまし8(ナレーション)」などに出演している。趣味はテニスやゴルフ、カフェ巡りなど
ハイボールと阪神タイガースを愛するアラフォーおひとりさま。神戸で生まれ育ち、学生時代は高知、千葉、名古屋と国内を転々……。雑誌で週刊朝日とAERA、新聞では文化部と社会部などを経験し、現在telling,編集部。20年以上の1人暮らしを経て、そろそろ限界を感じています。
1989年東京生まれ、神奈川育ち。写真学校卒業後、出版社カメラマンとして勤務。現在フリーランス。