山田詠美さん「嫉妬は取り扱い注意の感情。でも嫉妬を知らなければ、その先には進めない」
新作の原点はラクロの『危険な関係』
――『血も涙もある』は、人気料理研究家の妻、年下の夫、妻の助手で夫の恋人の3人の関係を、3人それぞれが語り手となる手法で書かれています。ひとつの不倫を多面的に見ることができ、のぞき見的な楽しさもありました。
山田詠美さん(以下、山田): 今回の小説の原点になったのは、フランスの作家、ピエール・ショデルロ・ド・ラクロの『危険な関係』でした。この小説は18世紀後半のフランス貴族社会を舞台に、いろいろな人たちが自分たちの恋愛のルールを手紙で書き綴った傑作。ひとつの恋愛も語る人によって、見え方や感じ方が変わることがわかります。光の当て方が違うと、差し込む色など、すべてが違ってくるのがおもしろい。それで、「次に恋愛関係を書く時は、それぞれに語らせよう」と決めていました。
――「不倫」を題材に小説を書こうと思ったのは、どのような理由があったのですか?
山田: 今まで、「不倫」という言葉を小説で使ったことは、ほとんどありませんでした。私の小説はもともと、結婚しているからといったルールに縛られることがないからかもしれませんが(笑)。よく言えば自由。ちょっと穿った感じだと、みんなお尻が軽い。人の恋愛はプライベートな問題だから、そこに他人が倫理観を持ち込んで、「倫理にあらず」と言うのは、おかしいと思っています。
有名人が不倫をすると最近、世間は猛烈にバッシングしますよね。あれには、違和感があります。古今東西、結婚している人たちが、よそで恋愛することを題材にして、たくさんの傑作も生まれているはずなのに。他人をジャッジする権利を持っているかのように語る風潮が強くなってきて、私はそれに我慢ができない。
そこで今回、不倫と正面から向き合って書くことを決めました。私が思う人間関係のおもしろさは、他人からルールを決められて、人間関係を作っていくところにはない。そういう思いを書いています。
――身内でもない人のゴシップに、世間がこれだけ反応してしまうのは、なぜなのでしょうか?
山田: そもそも、人の恋愛は叩くものではありません。きっと、「私は我慢しているのに」とか「あの人だけ、いい目にあっている」というのが耐えられないのでしょうね。“心の中にしまっていた思い”を匿名で話せる場所が増えているのも理由のひとつだと思います。
いわゆる「不倫」と言われるものに、すごくおもしろいドラマがあるのも確か。人を妬む自分を認めながら、人の恋愛を客観的に見たらいいのではないでしょうか。
嫉妬を経験しなければ、その先には進めない
――小説では、料理研究家の妻が夫のことを理解しているように振る舞っているのに、実はものすごく嫉妬していたり……。それぞれの嫉妬の形も興味深く読みました。「嫉妬」は男女によって違うものだと思いますか?
山田: 本質は変わらないでしょう。でも、ひとつ言えるのは「嫉妬は嫉妬したことがないと分からない」ということ。嫉妬して初めて「この恋がもしかしたら、自分を嫌な人間に貶めるほど本物かもしれない」というのも分かる。それがその人との関係のなかで、すごく興奮する刺激剤になる場合もあります。使い方によっては、ものすごく甘美なものも運んでくる。だからと言って使い過ぎると、全ての関係を壊してしまう……。嫉妬は取り扱い注意の感情。ただ、一度でも「嫉妬」を経験したことがないと、その先には進めないと思います。一度嫉妬を知ってしまうと、人間関係でクールに振る舞っていても、物足りない関係に思えるのではないでしょうか。
――感情は言葉にできて初めて、腑に落ちるという側面もあると感じます。
山田: 「恋ってどういうものですか?」と訊く人がいるけれど、そんなことを訊いている間は、知らないのだと思います。セックスに関しても、オーガズムは味わえば分かる。もしも「今の気持ちが分からない」と感じたら、それは経験していないから。「そういう名前で呼ぶものなんだ」というのは、体験すれば分かると思います。
――「ネットで調べたら、すぐに答えが出てくる」と思っている人については、どう感じますか?
山田: すべての答えが出てくると思っているのであれば、それはまだ若いからでしょう。でも、もし、50歳になってもそう言ってたら、バカみたいじゃない? 私も若い頃は、すべての知識を本から学んでいました。すごくブッキッシュな子で、その頃から恋愛を知ったようなつもりになっていた。なぜなら文学全集にもたくさんの恋愛が描かれていたから、「こういうものなんだ」と、知った気になっていたのね。ところが、頭の中に入れていたものが、全く役に立たなくなる瞬間というのが必ずやってくるのです。
同じように、ネットネイティヴの人たちが、ネットに触れて知った気になっていたのが、大人になって、「こうだったのか!」と気づくこともあるでしょう。分かる瞬間を知らないまま人生を終えたら、それはすごくつまらないことだから、臆せずいろいろなことを経験すべきです。
血も涙もあるから、ケミストリーが起きる
――小説の中盤、料理研究家の妻が、“アイスクリームに熟成したムッシーニの20年ものをかけて出す”場面は、嫉妬の表現として、すごくゾクゾクしました。
山田: 自分の年齢とともに培ってきたスキルがあれば、嫉妬を露骨に出さないですむこともあるけれど結局、最後には出てしまうのが人間。自分の頭の中で学んできたものが、役に立たなくなる瞬間をどれだけ繰り返していくか――。それをちゃんと「しまった!」と思わないとダメなのです。「しまった」と思う経験を繰り返していくと、いい女になっていくのではないでしょうか。
――今までで、一番「しまった」と思った経験は何ですか?
山田: 山ほどありすぎて、ひとつには選べないくらい(笑)。「しまった」だらけで。ただ、最近よく、「自己肯定感」という言葉を耳にしますけど、それだけで生きていくと、年を取ってからしっぺ返しをくらう気がします。
――『血も涙もある』というタイトルは、最後まで読んで「なるほど」と思いました。タイトルは最初から決めていたのですか?
山田: 血も涙もなかったら、どれだけクールな人生を送れるだろうか、と思いながら書いていました。冷酷な人は、ある意味、幸せだと思います。でも多くの人は体温があって、血も涙もある。だからこそ、その関係性が、熱を持ったり冷めたり、つまりくっついたり離れたりが、ケミストリーとして起きます。そういう人間ならではのおもしろさを書きたくてタイトルを決めました。
――不倫は、どのような結末を迎えればいいのでしょう?
山田: その人が自分で責任を取って、落とし前つけていればいいのでは。責任を取ると言っても、対外的にではなく、自分の内面に対して。「後悔していない」と感じられれば、いいと思います。人を傷つけて後悔したのであれば、それをずっと心の中に持って生きていくべきです。
年齢や結婚に縛られるのは、人間の本質?
――女性誌『GINGER』(幻冬舎)で「4 Unique Girls」を10年以上にわたり連載されています。30代女性たちに変化を感じましたか?
山田: 風俗とかツールは、時代によって、どんどん変化します。でも結局、女性が悩んでいることや男性に対する不平不満、求めているものは、変わらないような気がしています。
――30歳前後の女性は、いまだに「年齢」や「結婚」に縛られていると感じます。
山田: それも昔から変わりませんね。人間の本質なんでしょう。世の中がどれだけ変わろうと、大昔の小説を読むと「今でも同じだな」と思うことがあります。本質が変わらないからこそ、文学が成り立つ。名作として残っているものほど、本質を突いているのではないでしょうか。
――最後に、年齢を重ねる“魅力”はどこにあると思いますか?
山田: 「歳を取るのは素敵なこと」とか「年齢を重ねるのはいいこと」とは、一概には言えません。体力もなくなるし、「成熟するのは素晴らしいことだ」と単純に言う気にはなれなくて。
でも、若いことにすごく価値があるわけでもない。
歳をとってくると、身内や友達の死に目にあうことになります。誰だって、明日死ぬかもしれない。そういう経験をしていくと、年齢について語ること自体、意味のないことだと分かってくるのです。つまり、歳を取る、取らないということではなく、「その一瞬、幸せであるか否か」に目を向ける必要があります。先のことを案じて嘆くだけで、今を大切にできていないのなら、人生で重要なことを見逃してしまうのかもしれません。
『血も涙もある』
著者:山田詠美
発行:新潮社
価格:1,650円(税込)