33歳で亡くなった母が5歳のはなちゃんにみそ汁で伝えたメッセージ

書籍や映画になった「はなちゃんのみそ汁」は、33歳にしてがんで亡くなった安武千恵さんと娘はなさんの実話。千恵さんの夫・信吾さんは心を通わせるミュージシャンたちとともに、追悼コンサート「いのちのうた」を開き続けてきました。若くして亡くなった千恵さんは生前どんな女性だったのか。死期が近づき、どう生きていたのか。同世代であるtelling,読者たちへのメッセージを聞きました。

乳がんの手術後に出産、そして再発

はじめまして。安武信吾です。現在56歳です。
今回、がんのために33歳という若さでこの世を去った妻・千恵のことを、同世代であるtelling,読者にも知ってもらいたいと思いお話させて頂きます。

千恵は長崎県出身。大学院で声楽を学び福岡で教員をしていた25歳のとき、乳がんがみつかりました。当時、新聞記者として働いていた私と婚約中でした。
千恵は左乳房を切除し、抗がん剤治療を受けました。

私たちは2001年に結婚しました。一時は子どもを授かることはあきらめていたのですが、翌年に妊娠がわかりました。
そのまま出産していいのかどうか、私も千恵も悩みました。がん治療を経験しているため、母体や胎児にどんな影響が出るかわからなかったからです。
最後は千恵のお父さんの「死ぬ気で産め」の言葉に背中を押され、産むことに。そして03年2月に誕生したのが一人娘で現在17歳のはなです。「はな」という名前には花のように誰からも愛される人になってほしい、という願いを込めました。

ところが、はなが生まれて約10カ月後、千恵のがん再発がわかりました。肺への転移でした。抗がん剤の治療を再開し一時は体からがんは消えたのですが、2年が過ぎた06年にまたも再発が発覚。今度は肝臓や骨にも転移していたのです。抗がん剤治療で入退院を繰り返す生活になりました。

いのちのうたコンサートに出演した生前の千恵さんと、4歳だったはなさん。当時はがんの闘病中でした=2007年10月、福岡市

死を覚悟、“迷い”捨てた千恵

千恵は4歳になったはなに家事を教え始めました。「一人でも強く生きていけるように」と、みそ汁作りや包丁の使い方を教えました。

もともと私も千恵も食にこだわりがないタイプだったんです。でも、千恵はがんになったことで自分の生き方を考え直したのかもしれません。「食べることは生きること」と考えるようになり、「命が喜ぶ食べ物」を基準に食材を吟味するようになりました。

千恵が闘病生活をつづったブログ「早寝早起き玄米生活」にはこのように書いています。

今死ぬ気はないから、まだ死ぬ準備はしない。

だけど、時間が許す限り、彼女が運命を切り開く手伝いはできる限りやってあげたいと思う。

子どもは、天からの授かりものだ。

いずれ、私の手を離れて、旅に出る。 

また、がん発症後に母親になった千恵には、“迷い”がなくなったようにも感じられました。
生きる上での軸を獲得したような感じ――と言ったらいいのでしょうか。

もともと千恵はのんびり屋で、やらなければならないことを後回しにしていても気にしない性格でした。「私なんか何の才能もない、魅力もない人間」と口にするなど、自己肯定感も低かったように思います。

でも、死を覚悟してからの千恵は何事にも積極的になりました。「人に頼ってばかりいては何も変わらない」と考えるようになり、会いたい人には手紙やメールを送って実際に会いに行きました。
その行動力には私も驚かされたましたね。

手のひらの上で豆腐を切る安武はなちゃんと見守る父信吾さん=2009年5月30日、福岡市、溝脇正撮影

娘の中で生き続けた母の教え

ともに生きる希望を持ち続けた私たちでしたが、千恵は08年7月11日に息を引き取りました。33歳でした。はなは5歳で保育園に通っていました

最愛の妻を失い、私はひどく落ち込みました。
しかし、落ち込む私のそばで、はながひとり台所に立ち、みそ汁を作るようになったのです。千恵との約束をしっかり守る姿に、私ははっとさせられました。ふさぎ込んでばかりいてはいけない、私も前を向かなければならないと思いました。
千恵は自分の価値観を娘にしっかり根付かせることで、この世から去っても娘の中で生き続けようとしたのかもしれません。

そして、はなが9歳になったとき、私は千恵とはなとの日々を本にまとめました。12歳の冬には、この本をもとにした映画が公開されました。タイトルはどちらも「はなちゃんのみそ汁」でした。

当たり前にできる日々こそ、幸せ

千恵の生前、友人たちがわが家に集まって食事会をしたときに、こんなことがありました。
その日は千恵が料理を作り、友人たちは喜んで食べてくれました。日が暮れて、みんなで片付けをしているとき、千恵がいなくなったのです。

どうしたのかと思い探すと、千恵は隣の和室で横になっていました。聞くと、「体がきつくて片付けができない」。当たり前のことができない自分が情けなくなって泣いていました。当時、千恵は抗がん剤を服用していました。

人はいつどうなるか、誰にも分からない。千恵の口癖でした。健康なときは台所の後片付けをしている時間に幸せを感じることはなかなかありませんが「自分のやりたいこと、やるべきことが当たり前にできる日々こそ、実は幸せなんだ」ということに気づかされました。

安武千恵さん

人は自らの力で困難を乗り越えなければならないときがあります。大勢に流されず、強いものにひるまず、自分の頭で考えてほしい。僕の子育て哲学でもあります。それが、困難を乗り越えるための生きる力につながると思います。親はいつまでサポートできるかわからない。先に死ぬから。

「いのちのうた」で幸せな時間を共有したい

話を現在に戻しますね。

来たる8月10日夜に千恵の追悼の意味を込めた音楽イベント「いのちのうた」を開きます。

このコンサートは大学院で声楽を学んでいた千恵が生前、「命の大切さを伝えたい」と自ら企画して歌っていたのが始まりです。千恵が去ったあとは、はなと私が“法事”として続けてきました。

今年はコロナ禍とあって一時開催が危ぶまれましたが、無観客の配信というかたちで無事できそうです。千恵がまだ私たちのそばにいた07年から参加してくれているミュージシャン三宅伸治さんのほか、高校3年生になったはなもステージに立ちます。
結構ロックなステージになるんじゃないかな。はなは千恵が生前最後コンサートで歌った「ハナミズキ」でみなさんをもてなします。
これまでのコンサートでは、千恵が「いのちのうた」の呼びかけ人だったことを説明してきました。だから、事情を知らない人も趣旨を理解して参加してくれていました。会場にはいつも、がん患者やその家族、今の世の中に生きづらさを感じている人たちが駆けつけてくれます。とてもあたたかい空間です。

昨年の「いのちのうた」の様子=2019年7月、福岡市、chiyoriさん撮影

妻を亡くした私が、そして母を亡くしたはなが、一緒にステージで楽しんでいる姿を見てもらいたい。私たちも笑顔で楽しみます。

生きることは悪いことばかりではありません。大切な人を亡くして悲しみを抱えていても、多くの人と幸せな時間を共有することはできます。
千恵を亡くした後、実は「いのちのうた」をやめようとした僕の背中を押してくれたのが三宅さんでした。彼も一緒に音楽活動をしていた忌野清志郎さんを亡くしています。
三宅さんがいたから続けることができたコンサートです。未来を変えられる、ということを教えてくれました。音楽には幸せや平和をたぐり寄せる力があると信じています。

そんなメッセージを感じ取ってもらえるコンサートにしたいと思います。