肩書って何だろう

小橋賢児「セカンドID―本当の自分には意外な道筋で出会える」【肩書04】

自分にフィットする肩書を持つには、夢や目標がないといけない?そもそも好きなこと、やりたいことが分からなくてつらいのに…。『セカンドID』(きずな出版)では、もう一つのアイデンティティ(肩書)を持つことで、本当の自分に出会うためのヒントを教えてくれます。30歳を手前にどん底まで堕ちたという著者の小橋賢児さん(39)さん。そこからの道のりは?今いる枠から意図的に抜け出すことで見えた景色とは。お話をうかがいました。

●肩書って何だろう 04

夢や目標、持たないとダメですか?

――ご著書によると、小橋さんは、はじめから夢や目標を持っていたわけではないとのこと。一方で、夢を持たないといけないんじゃないか、夢がないのは悪いとさえ思っている人もいますよね。

小橋さん(以下小橋): 夢を持つなと言っているのではなく、夢があるなら進めばいいと思います。ただ、今は情報があふれているから、誰かの夢を自分もそうだと勘違いしてしまったり、「こういう夢を持つべきだ」といった枠にとらわれやすいかもしれません。

好きなものがないのに無理やり夢を探してみたり、そもそも本当に歩むべき夢ではないのに夢だと思い込むのって、つらいですよ。また、大きな夢を掲げすぎると、その距離が遠すぎて傷つくこともあると思うんです。

夢って意外と目の前に落ちていて、想定外の出会いから見つかることも多いですよ。僕もはじめから「社長になるぞ!」「日本一のフェスのディレクターになるぞ!」なんて狙っていたわけではありません。そのときにできることを一つひとつ積み上げていった結果、気づいたらそこにいたんです。

映画監督になったのも、サーフィンで足の小指を骨折したことがきっかけです。
骨を折ったんじゃ遠くには行けないだろうと、友だちが近所の店に食事に誘ってくれたら、たまたま冒険家の高橋歩さんの店でした。それで高橋さん主役の映画を撮るとの話を偶然聞いて、僕は監督の経験なんてなかったのに、直感で「監督をしたい!」と名乗り出てしまった。骨折した時は「最悪だ!」思ったけれど、あとから思えば新しい自分に出会うチャンスだったんですよね。

――足の骨折からの映画監督。どうしたらそんなチャンスがつかめるのでしょうか?

小橋: 今いる枠から意図的に出てみることだと思います。たまたま僕は海外に行きましたが、世界一周しろとか、いきなり会社を辞めろと言っているわけではないんです。たとえば違うコミュニティに入ってみたり、苦手な人と話してみてもいいと思います。苦手な人と話すって、結構な「勇気の旅」ですよ。でも枠から飛び出してみると、今まで想像もしなかった出会いや、自分にはこんな感情があったのかと気づくことがあるんじゃないかな。

そうやって目の前にある出会いや出来事の小さな点――ドットを一つひとつ紡いでいった先に、もう一人のアイデンティティ、セカンドIDに出会えるんだと思います。そんなセカンドIDこそが本来の自分だった、ということもあり得ます。

枠は、自分の意志とは関係なく外されることもありますよ。別れや、突然の解雇、骨折もそうです。自分にとって不都合、不条理にしか思えないことも、今までの枠組みから外れるチャンスなんです。

僕は今を生きていない。ネパールで圧倒的な人間力の差を感じた

――そういう捉え方ができるようになったきっかけは?

小橋: 30歳を迎える前にネパールに行ったことが一つ。僕は8歳から芸能界にいて、30代を想像したときに先が見えてしまったんです。このままいけばそれなりの人生が歩めるかもしれないけれど、それって楽しいのか。いつの間にか、僕は「俳優とはこうあるべき、こうしないといけない」と自分に制限をかけていました。感情をオフにして、気づけばロボットのような不感症になっていた。

でも、自分の奥深くでは、そんな状況に対して疑問や違和感を感じている。それがあるとき湧き上がって、僕は本当の自分を生きていない、自分にウソをついていると思った瞬間、急に怖くなって……。違う環境に行きたくて、旅に出ることにしたんです。

小橋: 現地では、同い年の男性と仲良くなり、家族にも会わせてくれました。奥さんと娘さんの3人家族。3畳ほどの狭い部屋で、しょっちゅうお金がないと言っている。それでも彼は、必死に家族を守って生きている。僕はまだ存在もしない未来を守ろうと、今をないがしろに生きている……。圧倒的な人間力の差を見せつけられ、劣等感や悔しさで、乗せてもらったバイクの後ろで号泣しました。

――オフになっていた感情のリハビリにもなったのですね。その後、アメリカにも行かれました。

小橋: ネパールに行ったことで感情のスイッチは戻りましたが、それが結果的に苦しくなってしまったんです。日本に戻ったら周囲は何も変わっていなくて、すべてがウソに見えてしまう。不安や焦りでだんだんその場に居られなくなり、逃げるようにアメリカに行きました。夢を追いかけるとか、全然カッコいいものではないんです。

その後また日本に帰国してからも、スムーズには進みませんでした。
海外でそれなりの経験や知識を得て何でもできる気分になっていたけれど、周囲の目は以前と変わらず、以前の俳優という肩書がむしろ邪魔して新しい仕事は何も決まらない。お金がないのもつらいけれど、やることがないのも本当につらかった。貯金も底をつき、自堕落になって当時の彼女から三行半をくらいました。家から全然出なくなり、気づけばお酒も飲んでいないのにストレスで肝臓を壊していました。

――そこからどうやって立ち上がったのでしょう。

小橋: どん底まで堕ちて考えました。このまま病気を言い訳にして過ごすのか、病気を克服して、第二の人生を歩むか。

僕は、後者になろうと決めた。ちょうど3か月後が誕生日だったので、自分で自分の誕生日をオーガナイズしてみようと思いついたんです。お金も無いのにホテルのプールを借り切って300人くらい友人を呼び、モチベーションを上げるために体も鍛えた。
誕生日パーティーは無事成功。それから少しずつイベントの仕事が入るようになりました。

Have toじゃなく Want toでいこう!

――それが5年後のエレクトロニック・ダンスミュージックの巨大フェス「ULTRA MUSIC FESTIVAL」につながるのですね。

小橋: これも、はじめから狙ってたわけではないんです。自分がこのフェスに出会ったとき、知らなかった感情や閉ざしていた気持ちがわき出て、心の底からワクワクした。内なる情熱の「Want to」が生まれたんですね。
いま、Have toで生きている人は少なくないだろうし、自分もかつてはそうでした。でもWant toから見える景色こそ、自分にしか作れない人生が隠れていると思うんです。僕も実際、Want toに従って目の前の出来ることを一つひとつやっていたら、今の自分に繋がりました。

―――Want toに年齢は関係ありますか?

小橋: ないですよ!物語は永遠に更新されて、繰り広げられる。大器晩成もあるし、ゴールは自分では決められるものじゃないと思うんです。失敗だと思ったことだって、「その続きの始まり」なんですよ。人間は変化していくものなので、これからもワクワクを探しながら、どんどん新しい自分に出会っていきたいですね。

『セカンドID―「本当の自分」に出会う、これからの時代の生き方』

小橋賢児

発行:きずな出版

●小橋賢児(こはし・けんじ)さん
1979年8月19日生まれ、東京都出身。LeaR株式会社代表取締役。クリエイティブディレクター。88年に俳優としてデビューし、NHK朝の連続テレビ小説「ちゅらさん」など多数の人気ドラマに出演。2007年に芸能活動休止、世界を旅しながら2012年映画「DON`T STOP!」で映画監督デビュー。「ULTRA JAPAN」のクリエイティブディレクター、「STAR ISLAND」の総合プロデューサーを歴任。東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会主催の「東京2020 NIPPONフェスティバル」のクリエイティブディレクターにも就任。

東京生まれ。千葉育ち。理学療法士として医療現場で10数年以上働いたのち、フリーライターとして活動。WEBメディアを中心に、医療、ライフスタイル、恋愛婚活、エンタメ記事を執筆。
新聞社の契約フォトグラファー、フリーランス、文化服装学院非常勤講師を経て2017年2月、スリランカ・コロンボに夫・娘と移住。写真館STUDIO FORTをオープンし、大好きなスリランカの発展に貢献したいと、その魅力を伝える活動を続けている。
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