ハワイ暮らしを選んだ女性たち02

自分にしかできないことがある。使命を見つけた人生の旅、ハワイへ【第2話】

女性の人生には分岐点がいくつもあります。幸いなことに、今は自分の道を自分で選ぶことができる時代。だからこそ出口のないトンネルに迷い込んでしまう人も少なくありません。そういった状況に直面した時、勇気を持って進むことができる人は、いったい何が違うのでしょうか。 この連載では、自らの力で未来を切り開き憧れの地・ハワイに移住した日本人女性たちにインタビュー。彼女たちから、一歩を踏み出すヒントを探ります。

●ハワイ暮らしを選んだ女性たち02

日本民謡円(まどか)の会を受け継ぐ家に生まれて

円杏寿(まどか・あんじゅ)さん、日本の伝統芸能である日本民謡をハワイで広げる活動をしている。実家は大阪を拠点におじいさんの代から「日本民謡 円(まどか)の会」を受け継いでいて、杏寿さんで3代目。現在はお母さんが会主を務めている。

杏寿さんは2歳半から民謡を唄い、小学校低学年の頃から三味線を弾いていた。

「気づいたら唄っていた、という感じです。自分がやりたいというよりは、やるものだと思っていました。もはや生活の一部になっていたので……」

2歳半からすでに民謡を唄っていた。写真は4歳のころ。©Anju Madoka

今でこそこの伝統芸能に全身全霊を捧げる毎日を送っているが、かつての杏寿さんは民謡や三味線に対して特別な感情はなかった。稽古はやるべきものと受け止め、辞めたことはなかったが、のめり込んだこともなかった。

「中学生の頃には、お稽古よりも学校のクラブ活動を優先したいと思うことも増えました。難しい年頃でしたから、自分の人生にはレールが敷かれているのではないかと、思うこともありました」

反発するように、高校時代はヒップホップダンスにのめり込んだ。それは大学生になっても、社会に出て介護士として働くようになっても続いた。

オーストラリアのバイロンベイでストリート演奏を行ったときの様子 ©Anju Madoka

緊張というよりも怖かった、オーストラリアでのストリート演奏

「いつか自分が『円の会』を継がなければならないのだろうか」
勝手にプレッシャーを感じて、ずっとモヤモヤしていた学生時代。しかし師匠であるお母さんは一度も強要することはなかったと言う。

「両親はいつも私のやりたいことを尊重してくれました。それと私がお稽古を一度も辞めなかったのは、きっと母の教え方が上手だったからだと思うんです。だから、あらゆる面で感謝しています」

杏寿さんの意識が少しずつ変わっていったのは、20代半ばでオーストラリアに2度目のワーキングホリデー滞在をしたときだった。偶然、日系のイベントを見つけ、三味線を弾く機会を得た。そこで思いもよらない反応を目の当たりにしたのだ。オーストラリア在住の日本人はもちろん、現地の多くの人々が関心を示してくれた。そして口々に「日本の音色っていいね」と讃えてくれた。

「嬉しかったですね。これをきっかけに、レンタカーでオーストラリアの東海岸をラウンドトリップすることにしたんです。途中で止まっては、いろんな街で三味線を弾いて唄いました。人前で演奏することは慣れているから、いざやり始めたら緊張はしないのですが、弾き始めるまでが怖くて。なぜかずっと慣れなかったです」

この経験が杏寿さんの内側にあった何かを変えたのだろう。帰国後に出場した唄のコンクールで大賞を逃すと、初めて民謡に対して本気になった。それから毎日真剣に向き合って練習を重ね、2年後に晴れて大賞をとると、自分の使命を意識するようになった。

師匠であるお母さんと共にハワイで念願の演奏 ©Anju Madoka

「後悔したくない」。その気持ちが自分を突き動かした

杏寿さんはおばあちゃんっ子で、いつも隣に住むおばあちゃんの家に通っていた。その最愛のおばあさんは杏寿さんが高校生の時に病気で亡くなってしまった。

「私はおばあちゃんが認知症と診断された時、何もしてあげられなかったんです。どうして覚えていないの?と言ったことすらもありました。それがすごく悔しくて。社会人になって介護福祉士として就職したのも、そのときの思いが強かったから。海外で英語を勉強しようと思ったのも、いつかおばあちゃんと旅をしようと約束していたからなんです。民謡に真剣に向き合うようになってから、ふと、唄う私を見つめる、おばあちゃんの誇らしそうな顔を思い出すことが増えて。その頃から意識が変わり、やっと決意が固まったんです」

「大賞を取ろうと本気で練習していた時も、全く嫌じゃなかった」と杏寿さんは振り返る。この時が、来るべくして来たタイミングだったのかもしれない。

その後お母さんと2人で、おばあさんとの思い出の地・ハワイへ旅行で訪れた。杏寿さんはここでもまた日系イベントが多数行われていることを知り、1年後に再訪した時には盆踊り大会で演奏する機会を得ていた。これを機に日系イベントや病院などでパフォーマンスをするようになり、観客の方から「ハワイに住んだら喜ばれると思うよ」と言われるまでになった。

「その言葉が自分の中ですごく引っかかったんです。以後の行動は早かったですね(笑)。まず3カ月ほどハワイに滞在してみて、その後本格的に移住を決めました。行動力の源ですか? 『もう何にも後悔したくない』っていう気持ちが強いんだと思います」

 アラモアナ・ビーチパーク。木に向かって黙々と練習する。©Anju Madoka

特別な場所、ハワイに移住して

そして今杏寿さんは、「円の会」のハワイ支部を立ち上げるべく日々奔走している。

「『円の会』は私の祖父が立ち上げて、それを母が大きく発展させました。母が偉大すぎたから、自分が継いだら先細りしてしまうんじゃないかっていう不安があって……。でも自分にしかできないことって何だろうと考えたら、海外に支部を作って大きくすることだと思ったんですよね」

ハワイに移住して真剣に日本民謡と向き合う日々は、既に2年が経った。お気に入りの場所は、アラモアナ・ビーチパーク。移住当時、シェアハウスで暮らしていた杏寿さんにとって、思う存分楽器を弾ける絶好の練習所だった。

「日焼けできないから、ビーチにいくときはどんなに暑くても着込んでいて目立つんです(笑)。でも、そんな姿を見て声をかけてくださった方がいて、演奏の機会を得るご縁につながったこともあるんですよ。ハワイのたくさんの方に支えて頂いているし、両親をはじめ、日本からもエールを送っていただいています。だから中途半端なことはしたくない。そして皆さんの気持ちに答えたいし、母に恩返しをしたい。何よりも、絶対に後悔だけはしたくないと思っています」

時々ふと、日本を思って寂しくなることがある。けれどハワイの広い空を見上げると、「ここに住めるだけで幸せ」と思いなおすそうだ。やまとなでしこ・杏寿さんの挑戦は、まだまだこれからだ。

フリーランス・ライター、エディター、インタビュアー。出版社勤務後、北京・上海・シンガポールでの生活を経て東京をベースにフリーランサーとして活動中。
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