遅咲き上等!

湯山玲子「この日本に生まれて、面白いことなんて仕事しかない」

『四十路越え!』や『日本人はもうセックスしなくなるのかもしれない』をはじめ、女性の生き方、男女関係についての著作を多数発表する著述家の湯山玲子さん。近年はTV番組のコメンテーターやアパレルブランドのプロデュースなど活動は多岐に渡りますが、意外にも本人は「私は遅咲きだった」と語ります。会社員からフリーランス転身への転機などについて伺いました。

●遅咲き上等!

30代、一個もいいことなんてなかった

フリー編集者として独立後、仕事は途切れることなく順調でした。それでも30代は「ひとつもいいことがなかった」って思ってましたね。「その仕事、絶対私の方が知識も経験もある!」ってことが、「若い子の方がイマの現場を知ってるだろう」となる。以前は自分の元にきていた仕事が下の世代の人に依頼がいくようになり、それを横目でみてることが多くなっていきました。
人から抜擢してもらったり、与えられる仕事が年々減っていくといった感じでしょうか。
でも、その時には腐ることも「もう一度どこかの会社に入り直そう」なんていう考えももうなかったです。ひたすら自分の得意としている「スポンサーをとってきて、雑誌のページを作る」っていうのを粛々とやり、納品するんです。

フリーというのもあり、立場が弱かったですし、人から軽く扱われることもいっぱいありましたよ。ある時は勝手に原稿が書き換えられて掲載されていたり、ある時には納品先の出版社の編集者のミスでページが丸々カットされていたり。
でもね、そこで怒鳴ったり感情をあらわにしたりはしなかった。怒るって、弱点をさらすってことじゃない。弱点はさらさない。事が起きた時に、誰が自分のためにどう動いてくれたか、それを注意深く見ておくんです。助けてくれた人の恩は絶対に返す、そうやって、恩でつながった大きなサークルを作っていくイメージです。

器用貧乏からの脱却

そんな風にして過ぎていった30代。編集としてもライターとしても色んな仕事をして、ゼネラリストになれた自信はありました。
でもそれって「突出しない」ってことですよね。同年代には「これしかできない」、「〜〜といえば〜〜さんだ」っていう専門家や文化人がちらほら出て来ていた頃。一つのことを突き詰めるって、世に出ていきやすい側面は確かにあるんですよ。そういう人に比べると当時の自分は、客観的にみると「弱かった」のかもしれません。十分知識はあるんだけど「〜〜専門家」って肩書きの人が選ばれちゃうんだよね。それが、40代に突入してからの一つの壁ではあったように思います。

このままだったら「なんでもできる、編集プロダクションの女社長」で終わるって思ってはいたんですよ。ぐずぐずしていた。請負い仕事で、主戦場にしていたカルチャー誌がだんだんと落ち込んでいく時代に突入するんですね。(スポンサーが)とれる会社からとれなくなっていく、っていう。

そんな時に、ニューヨークでクラブカルチャーに出会い「まだ私の知らない音楽の表現分野があったんだ」ってカルチャーショックを受けました。
それまで散々いろんなカルチャーをみてきたつもりでいて、正直新しい音楽に感動するってもう、ずっとなかったんですよ。「21世紀の音楽は、音圧と音色、そして体感だ」と。この音楽のセンスを乗りこなせば、今後の文化批評の大きな視点になると思った。本気でこの「クラブカルチャー」の専門家になろうって思ったんです。

そこで、クラブカルチャーの雑誌を立ち上げます。そこからは世界のクラブで踊りまわった3年間。ただまぁ、雑誌自体は時期尚早、まだまだ時代がついてきてなかったんですよね。大ヒットと言える出来ではなく、雑誌は後継者にひきつぐことになりました。

「湯山玲子」が金になる

その頃から、ちょっと自分が慰めで書いていたコラムが評判になっていくんです。編集長業務と併行しながら、後に文庫化もされる「女ひとり寿司」という連載を雑誌「VOGUE」でやっていました。

そこでだんだんと気づいてくるんですよね。編集長として売り上げもあげられなかった。裏方仕事は完璧だけれど、専門でやっている人の通常のクラスでしかない。けど、書いたものについては人が褒めてくれる。才能を人からみつけてもらったんです。

やっと、そこでふっきれたんですよ。「湯山玲子」のクリエイティブは人様が買ってくれる、と。
それから、書籍をはじめ、現在はショップチャンネルで自分のブランドを立ち上げたり、テレビのコメンテーターをしたり。実はこれらはすべて「やってみる?」という外からのありがたいお誘いに軽々しく乗っちゃっただけ。乗っちゃってから、必死で試行錯誤して、納品する。と、これ、まさに会社員時代につかんだ哲学のママなんですけれどね。
今でも成功してるとは思わないですよ、自分のことは自分が一番わからないと思ってる。
でも一つ言えるのは、依頼があった仕事は断らない。愚痴言いながらでも、それが得意な人にフォローしてもらいながらでも、やり遂げていくことで次につながっていくんです。

この日本に生まれて、面白いことなんて仕事しかない

今、なんとなくうまくいかないとか、くすぶってるなって思ってる「遅咲き」を目指す人たちへのアドバイスがあるとすれば、シンプルだけど「仕事に本腰を入れろ」ってことに尽きると思いますね。
そして、これははっきりと言えるのですが、仕事が私の人格なんです。

実際、この日本に生まれて、おもしろいことなんて仕事しかないっしょ!
恋愛?うーん、そういう男女の関係性に心身ともにじっくり取り組み、味わう文化は申し訳ないけれど日本にはない。というか、日本人の男性はそういうブレイヤーではない。
家庭だって、夫や子があなたの「味方」っていう保険というだけ。私も結婚はしているし、「保険に入っておく」のを悪いとは言わないけど、仕事で抜き差しした人間との関係は、短期間だったとしても、もの凄く濃密です。

仕事のいいところはちゃんとやってきたことに対して、自分への正当な「いいね!」が入ること。シャンパン片手に夜景の前で撮った写真に「いいね!」をもらってもしょうがない。仕事を自分の流儀で一生懸命やってみることです。やみくも、というわけではないですよ。スジを通した働き方には、絶対に人格に「いいね!」がくることを信じて欲しい。

自分が抜擢されるということは、誰かが犠牲になることでもあります。その突出を怖れないことも重要。女の人って変な謙遜をするよね?「いえいえ私なんて」って。大きく出ていいんですよ。エネルギーの強い人間には必ずシャドーがでる。シャドーを気にかけることは大事だけど、シャドーの怖さで自分の活動にブレーキをかけなくてもいい。
影や犠牲者がまわりにない人は、それだけ突出していないってこと。

私は子供は作りませんでした。「悪いこと言わないから子供は産んどいたほうがいいと思う」って散々言われたけど、自分としては大正解。そういう人もいるということです。
少子化の時代の中で「それがいけないんじゃないか」って思い込んでしまう人もいる。その呪縛に自爆していくパターンは本当に多い。人間は幸せになりたいくせに、悩みを自分でつくり出してしまうやっかいなところがあるんですよ。
子供がいた人生もあるのかもしれないけど、当時の「女は結局、家庭を最優先しろ」の空気の中では、今のキャリアはなかったと思う。このおもしろい仕事の深みは得られなかったと思います。

もうすぐ、還暦なので、そこら辺までに、今まで塩漬けにしていた企画などをどんどん現実化していこうと思います。そのリアルが叶った時点で、ついに人生最後の山場をスタートさせていきたいですね。

大学卒業後、芸能事務所のマネージャーとして俳優・アイドル・漫画家や作家などのマネージメントを行う。その後、未経験からフリーライターの道へ。
写真家。1982年東京生まれ。東京造形大学卒業後、新聞社などでのアシスタントを経て2009年よりフリーランス。 コマーシャルフォトグラファーとしての仕事のかたわら、都市を主題とした写真作品の制作を続けている。
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