湯山玲子「愚痴も悪口も言っていい。愚痴から次の道を導き出す」
●遅咲き上等!
男女雇用機会均等法以前からスタートした20代の会社員人生
雇用機会均等法が施行される前、1983年に新卒採用でぴあに入社しました。当時女性誌を飾る読者モデルの子達の職業欄には「家事手伝い」っていうのが平気で躍っていました。「家事手伝い」が職業、ってすごくないですか?むしろステイタスでさえあったかなあ。
女性の総合職の働き口は少なかったし、大手企業に就職できても「お茶汲み」が当たり前。そんな中、ぴあは情報誌の販売でぐっと伸びていた会社で、性別関わらず同じように仕事を与えてもらえる会社でした。
「得意なことをやらせない」人事にもやもやした
初任はコンサートチケットの問い合わせ先やインフォメーションを載せる情報誌「ぴあ」の部署へと配属に。雑誌が扱う情報は多岐に渡り、芸術・美術から音楽、そして演劇、お笑いまで。
学生時代からバンド活動に打ち込み、父はクラシックの音楽家だった私は当然「そっち採用」だと思っていました。音楽の仕事ができる!と、たかをくくっていたんです。けど、言い渡されたのは寄席や演芸、歌舞伎の担当。今でも大企業なんかには存在する「得意なことをあえてやらせない」人事。今思い返せば、「違う視点を持つ」みたいなことも理解できる。だけど当時はやっぱりどこか、心の中にくさくさしたものはありました。
また、大手出版社に勤めた人たちを横目に見ていて純粋にうらやましさもありましたよ。新人の頃から誰もが知ってる雑誌や漫画誌の担当になって、先輩に連れられて大御所の作家と食事に行ったりなんかして。ぴあは電話帳と同じ情報誌ということで、二流に見られてる気もしていたし。情報を集めてきて、載せる、という仕事は、「クリエイティブ」ではないですからね。
4年目で新設の部署に抜擢
その後「タイアップ出版」という、広告費をもらって雑誌を作る新設の部署へと異動になります。経験のある上司がいない部署で、4年目でいきなり予算3000万円のムックスの編集長、をやらされた。まぁ普通の企業ではあまり考えられないですよね。勢いのある、今で言うベンチャーみたいな会社の中で、生意気ではあったけど個性的なヤツで面白そうだからと私に白羽の矢が立った感じでしょうか。
編集なんて初めてだけど、「野心」はあったと思います。大手出版社の同じぐらいのキャリアの人がこつこつと習得してきたスキルを、この一冊で習得してやるぜ、って思ってましたね。
私、一見、そうは見えないんですが、「不安要素をとことん分析して、予防線を張る」っていう性分があるんですよね。どういう流れで仕事は進んでいくのか、どういう順番で人に振ればよいのか、考えた末に出した結論が、「仕事は納品である」ということ。過程はどうでもいい、結果に責任を持ちさえすれば、という哲学ですよ。
日本って、「門下制」みたいなことをすごい大事にするじゃないですか。師匠に丁稚奉公して、まずは下積みをやって、って……。でも、自分が、仕事はどう流れていくのかっていう「キモ」さえわかっていて、「お金」と「マーケット」があれば物はつくれる。それを給料をもらい、仕事をしながら学んでいくんです。
みんな仕事をしていると、「人間関係」とか「スキルアップ」とか、そういうことばっかりに目がいく。でも違う。「この仕事は、何で儲かっているか」それを掴むことが仕事をするっていうことだと思います。
「ものすごい出すぎた釘」が打たれる
2、3年とキャリアを積んでいくにつれ、会社の悪いところに目がいくようになっていきました。会社組織が成長していったことで、大会社特有の「ブレーキをかけだす」管理強化の方向にかわっていったんです。そういう流れの変化に対して、もやもやしたものが生まれるようになっていった。その頃は人に会うと会社の悪口言ってる状態(笑)
周りの他社の子たちを見てると、だんだん自分たちの采配で仕事ができるようになって、華々しい仕事をしているタイミング。羨ましくもなり、そっちに転職しちゃおうかな、って思うこともあった。でも、仕事も暇なわけじゃないし。ぶすぶすしたものがありつつ、日々やっていくっていう毎日でしたね。
そんな折にNHKスペシャルとのメディアミックスの大きな案件のプレゼンを通したんです。番組がファッションのことを歴史から、モードから集大成的にまとめ、それをこちらが雑誌に落とし込む。これは絶対にやってみたいと思った。先方のプロデューサー陣ともウマがあって「湯山さんも海外ロケに同行してくださいね!」と。ところが蓋を開けてみると会社から「待った」がかかる。結局は「ものすごい出すぎた釘」だったんでしょうね。それでも、取材陣が取材してきた膨大なデータを、人海戦術とクリエイティブのすべてを尽くして編集して、編集長として自分としても納得のいく雑誌を作り上げたんです。
ところがその後異動になった先は、雑誌「TVぴあ」のいち編集部員。ある種の降格人事ですね。私は30代になっていて、その頃のぴあではもうその歳だと管理職になっていないといけない年齢でした。その時の上司も自分より年下だったし。
良くしてもらっていた取締役の元へ抗議に行くと、「お前は傲慢だ!」と説教をされて。あの頃は許せなかったけど、そういうところが私には確かにある(笑)。「お前は傲慢だっ!」今では私の座右の銘なんですよ。私自身も、編集長をしていた数年間があまりにも充実していたので、ちょっと燃え尽き症候群になっていた部分もあったんだと思います、「辞めよう」っていう考えが芽生えました。
会社を辞めようとすると必ずかけられる「呪い」
大きい会社をやめようとする時って、周りが必ず呪いをかけてくんですよね。「うまくいくはずがない」とか「独立するなんて年齢的に遅すぎる」とか言われました。でもどちらにせよ、20代で独立すると言えば「早すぎる。お前に何ができる」って言われるわけで。日本においての組織ヌケに対しては、こういう空気が今でもあるのではないかと思います。
とにかく毎日、不安だったし、イライラしていました。外部の人とつるんで遊んで、愚痴ばっかり言っていました。
そんな時に雑誌「SWICH」の編集部に遊びに行く機会があって、ちょうど落語特集の会議中で、ブレストに参加したんです。かつて担当していた落語の知識、持論をぶわーー!!ってぶちまけたら、ウケちゃって(笑)ぴあにいながら、その企画を手伝うことになったんです。もちろん、タダで。それから、フリーへの道が拓けていくことになります。
「お前は傲慢だ!」と言われた当時。「反省して、ちゃんとやる」をしてたら、まだ出世コースはあったのかもしれない。けど、違うなって。一種のイニシエーション的な人事に対して、私は「やってらんねーな」のほうだった。
愚痴も悪口も言っていい。
私ね、愚痴や悪口を「悪しき」としてないんです。「なんでいま、自分はこの会社とうまくいかないんだろう」それを「ぐっとこらえる美学」じゃなくて、悪口という名の分析をしていく。そうするとたいていは「自分の能力が評価されない」っていうとこに行き着く。じゃあ今度は「自分を評価してくれる人はだれか」を考える。ずばり社内のその人に直訴するという手段をとるか、「会社が人を評価するポイント」に自分がはまっていないのであれば転職を考えるとか。そうやって、愚痴の中から次の道を導き出していく。
今の人たちって、言葉が足りない人が圧倒的に多いように感じます。言葉を持つんです、「なんか嫌だ」とか「気が合わない」を徹底的に解析していく。現に私はそれを外向けにやっていったことで、会社の外にネットワークができ、仕事が生まれていったので。
みんながかけてきた「呪い」のことも理解していたので辞めるまでも周到にやりましたよ。退職が決まってからも有給消化なんて不安でできなかった。仕事が途絶えることが怖かったし、早く独り立ちしたかった。独立や転職を考えてる女性には言いたいですね。「頑張った自分とやらに、ご褒美なんてあげてんじゃねぇ」と(笑)。みんなすぐバカンスとかいって海外旅行して無駄金使うでしょ?そんなことしてる暇があったら仕事しなさいって。
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後半では、「ひとっつも良いことがないと思っていた」と語る30代から40代にかけ、そして「コンテンツを生む」立場から「自らがコンテンツになる」立場へと変化し、「開花!」した50代へのお話を伺います。後編は5月18日(土)公開予定です。
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