単細胞的幸福論のすゝめ 09

ブラのホックを外されなくなって5年経った

3回目の結婚記念日を迎えた。結婚するときに「ずっと恋人でいたい」と思ってた。でも、思い返せば夫にブラのホックを外されず5年経ってた。家に帰れば服も下着も全部脱ぎ捨てて、だるだるのスウェットに身を包む。仕事から帰ってくる彼をボサボサの頭で「おかえり」と迎える。ブラのホックを外されてないというか、ブラのホックを外させてなかったのである。

●単細胞的幸福論のすゝめ 09

そういえば、最近ブラのホックを外されてない

我が家は、毎日一緒にお風呂に入るのが暗黙のルールだ。夕食は別々に食べるけれど、お風呂はよっぽどのことがなければ一緒に入る。1日の終わりを一緒に過ごして、ON/OFFのスイッチを切り替える大切な儀式。

今年の3月に臨月に入り、哺乳類化していく自分の身体を受け止めきれず、落ち込んでいた。そんなとき「最後にブラのホックを外されたのっていつだ?」と、一つの疑問が頭をよぎった。

ブラのホックを外されなくなって5年経つ。だるだるのスウェットに身を包む私を抱く夫。同棲からはじまった共同生活。いつから私は全裸でお風呂から出てくるようになり、だらしない格好を彼に見せるようになったのだろう。

同棲をはじめた当時は、お風呂から出たら脱衣場で着替えてから彼の前に現れるようにしていた。パンツとブラは計算して必ずセットになるように準備してた。こうした「女を着崩さない」ための自分で決めたルールがきっともっとあったはず。思い出せないだけで…。

でも、今、彼の前で控えることはたった二つ。おならと鼻くそをほじること。でも、これはもう意地になってるだけ。「だらしない格好やな」と言う彼に対しての対抗意識。ここは一線を引いています!っていう、本当にくだらない意地だ。

冷静に考えてみると、「ブラのホックを外されてない」のは間違いで、「ブラのホックを外させてなかった」のである。

女として悦に入る瞬間はホックを外されるとき

じゃあ私は何のために下着を身につけてるのか。ホックを外されるあの瞬間、あのドキドキ感の虜になっていたはずなのに。

自分のことを愛せないと、人に愛されることなんてないと思う。寸胴体型の私を何も言わずに愛してくれる、下着と彼。夫にホックを外されることで女として心が踊る。女で良かったと思えるのも、きっと自分を愛せるように下着が作用してくれてるからだ。

友人にも聞いてみた。「最近ブラのホック外されてる?」って。「あんたの気持ちはわかるけど、いまさらブラ付けてメイクしてベッドに入ったところで、夫に言われるのは『え、なに?どうした?』じゃない?それは精神的にきついよね」と苦虫を噛みつぶしたような顔で言う。

痛いほどよくわかる。一緒に生活をすることで「男女」から「パートナー」になった。今更「男と女」の時間を持ちたいと思っても、私一人の努力でなんとかなるものではないのかもしれない。

一度手放したから、取り戻したいもの

正直、妊娠するまではそんなことすっかり忘れていた。恋愛市場から卒業したことへの安堵感でゆるゆるになってしまった私の責任。

妊娠をきっかけに「また女として夫にみてほしい」と思うようになった。だって、胸下までくるマタニティ用パンツを履いて、ノンワイヤーのブラジャーをつける。鏡にうつる私はまるでカブトムシだ。

もしかしたら、これはターニングポイントになるのかもしれない。一度「女」から離れたことで女の素晴らしさ、美しさ、女だからこそ楽しめることにたくさん気がついたから。

食べ物を選ぶように、下着を選ぶ時間。自分の肌のコンディションや、気持ちと向き合う時間。全部大切だけど、「女」というボルトを最後ぎゅっと締めるのはやっぱり彼の役目。

母として妻としてのベースはやっぱり「女として」、女性としての人生を謳歌したい。

だから、お願い。またブラのホックを外してね。そして、私の全てを愛してね。

1990年生まれ。保育士、BuzzFeed Japanを経てフリーランスへ。あんぱんと羊羹が好きです。
単細胞的幸福論のすゝめ