日本初のフードコーディネーター祐成陽子80歳「しがらみなんて気にしない」

日本のフードコーディネーターの先駆けとして活躍し続ける祐成陽子さん80歳。4000人を育てた、80歳の現役校長による著書『どうせなら、笑って生きていく!』(光文社)では、攻めて楽しむ人生哲学!として自分がしたいことをする」「しがらみなんて気にしない」ことを掲げる。祐成さんの圧倒的パワー、飽きさせないアイデアはどこからくるのでしょうか。お話を伺いました。

フードコーディネーターはハングリー精神から生まれた

――料理やフードコーディネーターの第一人者である祐成先生が、この世界に入られたきっかけは何でしょうか?

祐成先生(以下、祐成): 料理が好きで、家政学部がある大学に行きました。ただ、そこでの調理実習が正直美味しくなかった!教科書通りに作っても味気ないし、先生も料理を作ったらすぐに帰ってしまうんですよ。きっと先生も美味しくないことを知っていたんじゃないですか。なので先生が帰ったあと、毎回私が「みりん持ってきて」「醤油持ってきて」とみんなに声をかけて、どんどん味を直しちゃってね。周りも陽子さんが作った方が美味しいって言ってくれて。先生にはそんなことも知られないまま、卒業しました。

その後、結婚して社宅住まいに。日中は暇で、上司や同僚の奥さんなどご近所さんにケーキを作っていたんです。すると「買うより全然美味しい、今度教えてよ」って、作り方をお教えするようになりました。。狭い部屋だから入っても4、5人でしたが、噂を聞いて月曜日や火曜日、それが毎日となり、転勤で京都や九州に行っても、行く先々で流行りましたね。

――すごい人気ですね…!しかし、フードコーディネーターという言葉が無かった時代に、どうやって新しく開拓していったのでしょうか。

祐成: 当時住んでいた社宅は、汚くて狭くてトイレなんて汲み取りトイレだったんです。料理を教えていると「奥さん上から水流して」なんて言われるくらい。そんな雰囲気の悪いところで教えているから、せめてテーブルの上だけは自分の世界を作ろうと思って。それ以外は子供がウロウロしたり、ベビーベッドが置いてあったりごちゃごちゃだけどここ(テーブル)だけはと。

そもそもフードコーディネーターという言葉も無かったし、箸置きとかランチョンマットは毎回自分で考えて作っていました。材木を山から取ってきて、削って箸置きにしてみたり、レンガを砕いて使ってみたり、色々やってみましたよ。

――そのアイデアは毎回どこから出てくるのでしょうか?

祐成: ハングリー精神ですねぇ、今のように必要な情報や商品が無く満たされてないから。東京に行って買い物をすることもなかったし、店に行けたとしても、当時は私が考えた料理には合わなかった。
やがて、時が経って生活や精神が満たされてくると、今度は便利のためのもの作りとなりました。ハサミやキャベツの千切りの道具など、工夫の数々です。          

正解がないなら自分で正解を作ればいい

――そもそもはじめは起業するつもりもなかったんですよね?

祐成: あれ作ってほしい、これ作ってほしい、ってリクエストがきて、自然とお金が入ってくるようになり、起業を意識しました。とはいえフードコーディネートって分かりづらいでしょ。正解はない世界なのだけれど、お客さんはお金を払って正解を求めに来るから、正解がないなんて言えない。なので私が正解を作りました。なぜこれをここに置けばいいか、コーディネイトのバランスや加減、料理が美味しそうに見えるのか。その時によって材料の大きさ、お皿の大きさ、深さなどにより違ってきますので、全体の比率を教えるようにしたんです。自分で式を作ったの。洋書を見ながら研究して、ちゃんとまとめて教えられるものにするにはやっぱり大変でした。あの頃には戻りたくないわ。

フードコーディネートの知名度なんて無かった時代。仕事を依頼されても、カメラマンの撮影料は払えるけど、“フードねーちゃん”には払えないって散々言われましたよ。知らない人は、テーブルにモノを適当に置いているって思うわけ。だから、式を作らないとダメなの。

――今以上に女性が仕事と家事の両立が珍しい時代で、周りの反応はどうでしたか?

祐成: 何しろそれまで働いたことがなく、いつもドキドキしてましたよ。だから家庭は構わなかったです(笑)。周りの人があの人は家事をやらないとか、そんなこと言ってるか言ってないかなんて、気にしないんです。その人が手伝ってくれるわけじゃないし、子供が不良になったわけでもない。全然気にしませんでしたた。

だから学校の授業参観に行ってもママ友とかいなくて浮いててね。間違えて先生の椅子に座っていたら注意されて、もう、傷ついちゃって、たまに行ったらこれだ、もう行かないってね(笑)

朝昼晩1日3回のお見合いで16番目に出会った夫

――ところでお見合い結婚だったとのことですが、1日に3回お見合いなさったとか。

祐成: 23歳で結婚しようと決めていたので、一日で朝昼晩と3回見合いをしていました。旦那は16番目のお見合い相手で、昼の時間に出会ったんです。その日、夜のお見合いの人が終わって帰宅すると、昼の人からお付き合いしたいと返事が来ていて。うちの父がこういうのは即答する人がいいと言うし、親が望むような大学だったりしたもので、とんとん拍子に話が進み、9月にお見合いして1月には結婚しました。相手のことをよく知らないうちに結婚したから、良かったのかもしれませんよ。

――結婚するなら旦那さんのような裏方体質がお勧めとありますが

祐成: 自分で言うのもおかしいけれど、彼は私のことが大好きなんです、陽子さん命なんですよ(笑)。私はそれほど好きでもないの。旦那は気が利かないんですよ。でも、私がガンになって、夫も一緒に健康診断に行ったら主人の胃ガンも発見されたんです。そのとき、「陽子さんじゃなくて、僕で良かった」って。そういう人ですよ。お店を出したいと言った時も、働いたことがない私に、リスクの方が大きいのに今後の投資だと言って出店費用のためにボーナスを全部出してくれたり。

しがらみなんて気にしない。嫌なものは嫌だという

――なかなか気概のあるご主人ですが、祐成さん自身も、著著の中で「しがらみなんて自分で作っているだけ」とおっしゃっていますね。?

祐成: 全然しがらみないですよ。夫の実家は飛騨の高山の伝統的な家、長男の嫁としてはお客さんをたくさん呼んだりして働かないといけないのに、私、行かないんですよ。法事は行かなきゃいけないと思って行ったけれど、黒い革ジャンを着て出ようとしたら、お母さんそれで行くの?って。来るなら来いって感じの嫁はまずいんじゃない?って息子に言われたこともありますね。

結婚した当時は長男の嫁といったらすごく働くっていう暗黙の了解があって、それは自分は嫌だったの。その世間の当たり前というのが嫌だと。だから「できません」ってはっきり言った。
いいのいいの、怒られたって全然いいの。主人も新しい考えだったので、一緒でしたよ。
こうあるべきっていうふうには、昔からとらわれない。伝統も何も崩していましたよ。

【取材後記】
祐成さんに一度でも会うと、圧倒的な明るさとパワーを感じ、ついこちらも笑顔になってしまう。自分が得意なこと、興味があることを人に教えていたら今に繋がった。しがらみや世間の当たり前も嫌なら嫌と言う。自分の道は自分で切り開く。インタビュー中も圧倒的に明るいパワーが溢れ出ていた。

●祐成陽子さん プロフィール
祐成陽子クッキングセミナー校長。1965年、料理・ケーキ等の道具や材料の専門店を開業。1987年には日本初のフードコーディネーター養成校を設立。卒業生の多くが出版業界やテレビ番組のフードスタイリスト・料理家として活動。2007年にがんを患い闘病生活を送るが、現在は克服。料理家として、校長として、多岐に渡り活躍中。

どうせなら、笑って生きていく! 80歳“ばあばのOL"の年齢不相応のススメ

著:祐成陽子

光文社

東京生まれ。千葉育ち。理学療法士として医療現場で10数年以上働いたのち、フリーライターとして活動。WEBメディアを中心に、医療、ライフスタイル、恋愛婚活、エンタメ記事を執筆。
遅咲き上等!