大好きだから近づかない。大好きだからそばにいる。
●単細胞的幸福論のすゝめ 06
恋愛には終わりが来るから
大好きな人、ずっとそばにいたいと思える人との恋愛はタブーだ。だって、いつか終わる関係なんて虚しい。そして、私が見てる「好きだ」という部分以外を受け入れられるのかなんてわかんない。
結婚だって同じで、いつまで続くかわからないものに時間と精神力を割くことはリスクでしかない。こういう考え方を冷血というのか、効率的というのか、ビジネス脳というのか……。正直わからないけれど、「甘さ」が無いのは確かだ。
好きだから自分のものにしたかった、恋愛とは離れたところで
昔から独占欲が強い。一人っ子として育ってきた時間が長いからだろうか。自分のお気に入りのおもちゃは絶対誰にも貸したくないし、好きなものが一緒っていう友だちなんて要らない。人に対しても同じで、気に入った人は全員自分のものにしないと気が済まない。
自分の縄張りを定め、暗黙のルールを決める。一線を越えた人間を許せない。自分のものとした人に誰かが不用意に近づけば「こいつは私のものだから、勝手に仲良くしないで」と、牙をむき出しにする。
まるで2、3才児がそのまま大きくなったようだ。でも、27歳でいる期間の終わりが見えたぐらいに、少しそこから卒業できた。
「こいつ、わがままだな」って思うかもしれない。でも、これでもまだマシな方で、セックスは所有の証だと思ってた時期もあった。この人は何が起きても自分のそばに置いておきたい。その理由というか、首輪というか、鎖をつけるための情事。
でも、気づけばセックスをきっかけに良い方向へいったことはほとんどない。ほとんどというか、全く無い。
自傷行為や麻薬と同じようなもので、そこで得た満足感は一瞬で消え、虚無感との戦いがはじまるのだ。
いつから聖なる儀式をスキップするようになったのだろう
好きな人に好きだと伝える行為、「告白」。それが手紙だったり、口頭だったり、LINEだったり、手法は様々だけど、そこにかける誠意や勇気に偽りはない。
でも、20代にさしかかると、なぜだか聖なる儀式とは無縁になる。そういった順序を踏まえる人もいるだろうが、セックスから始まる恋愛関係を「オトナの恋愛」と称するからだと私は思う。
「オトナ」を盾にして、精神的に未成熟なまま、「好きだから」「自分のものにしたいから」、そんな単純な理由で聖なる儀式をすっ飛ばして物理的に繋がる行為に走る。
聖なる儀式に重きをおいていたあの頃の自分は、きっと結露した窓の外から冷ややかな目でこちらをみてる。「大人って逃げるんだ」って。「私が大人になったあなたに願っていたものは、そういうのじゃないよ」って。
だから、私はあなたのために頑張る
聖なる儀式をしっかり踏んでくれた夫。そんな彼との結婚の決意は「恋愛市場からの卒業」でもあった。
選ぶ、選ばれる。終電に乗るか逃すか。ブラとパンツが揃っているかをトイレでこっそり確認してから、手をとって夜の街に消えるか否か。そんな世界からの卒業は清々しいものだった。
28歳になって気づいた。今も昔も私にとって好きな人、独占したい人は別に恋愛的に好きなわけではなく人間的に好きな人だということに。
この気付きをきっかけに、どれだけ相手の力になれるか、セックスではなく人間同士の素敵な関係をいかに大切にしていくか、そっちにシフトできるようになった。
肉体的な接続よりも、何をそこから生み出すか。それが友人だろうが知人だろうが、仕事相手だろうが、そこにかける時間の輝きはセックスを遥かに越え、明るい未来に愛の結晶を残す。
28歳になっても「こいつは私のもんだ」と牙をむきたくなることがある。でも、そう思える人たちと過ごす時間は何よりも甘いのだ。
だから私はもう近づかない、でも、そばにいる。大好きだから。
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