この世界は生きづらいから、私は愛を求める。
●単細胞的幸福論のすゝめ 05
久しぶりに母校へ遊びにいった。職員室のドアを開けると、ある先生が「がんばってる?」と、私の顔をみて、たわいのない挨拶程度に声をかけてきた。「頑張ってないよ」と17歳の私が27歳の私の口を介して返事をする。
「あら。頑張ってくれなきゃ困るわ」とキョトンとした顔で私をみる。27歳の私は17歳の私の心境を説明するように説明する。「頑張ろうって頑張ったらじんましんが出たり、髪の毛なくなっちゃったりしたの。だから、頑張らない」。
すると笑って「楽しいことを頑張りなさい」と言ってくれた。
「それはめちゃくちゃ頑張ってるよ」と17歳の私が笑う。
「あなたはそれでいいの。そういう子なの」と先生も笑った。
「みんなと同じ」を目指してひたすらもがき続ける
同じ年に生まれたというだけで、シャーレのように狭く浅い、息苦しい空間に突っ込まれる学生時代。
苦痛だった。毎日同じ時間に家を出て、同じ顔をみて、45分とか50分とか座り続ける。
先生の口から出る言葉は異国の呪文のよう。「何を言っているかわからない」という状態に一日浸るときもあった。
まるで水深30メートルぐらいのプールに沈められているようだ。水分を含んだ制服は重く、水がいっぱいになった上履きはグシャグシャと音をたてる。
成績は万年最下位、運動ができればいいのに徒競走は小学校1年生から高校3年生までビリだった。
整理整頓ができなくて、友だちから借りたCDはなくし、出てきた頃にはバキバキの状態。
「なんでこうなっちゃうの」
「なんでわかんないの」
「なんでできないの」
みんなと同じことができない。そんな「私」を受け入れられなくて、「みんなと同じ」を目指してひたすらもがき続けた。
頭に浮かぶのは「何をやってもダメな私」
18歳、生きづらさにもがくような私は救いを求めSNSに気持ちをぶつけていた。
あるとき「何かヒントをあげられるかもしれない」と1通のDMがきた。
送り主は「メディアコンサルタント」、色々なメディアや人を渡り歩く人だった。
勇気を出して会いに行き、それをきっかけに私はその人を師匠と呼び、その人は私を弟子と呼ぶようになった。
師匠の仕事についていく。隣に座って「働く」を間近でみる。「大人はこうして物事を決めていくのか」と話し合いの価値を肌で感じる。
「学校」という枠組みの一歩外には、楽しいことが待っている。目に入るもの感じること、全てが希望だった。
師匠はヘマをしてもお母さんや先生みたいに頭ごなしに否定しない。ゆっくりと説明してくれる。そういったことで「愛されてるな」って思えてた。
でも、ある時期から声を荒げて怒り出すようになった。電話で謝ると「普通だったら来て謝るだろ」と言われ、泣きながら電車に飛び乗って事務所へ向かうこともしばしば。
きっと、できない私に付き合いきれなくなったのだろう。
それからまた「何をやってもできない自分」そして、「何をやっても怒られる自分」しか想像できなくなった。
「もう愛してはもらえない」
頭の中が自己否定的な言葉で埋め尽くされ、私は師匠の元を去った。
もう好きじゃない人とは一緒にいたくない
保育士を辞め、会社員になったときもだんだんと同じような悲しみを感じるようになった。
「何をやっても私はダメだ」。そんな精神状態で仕事をこなせるわけもなく、怒られる日々。髪の毛は抜け落ち、毎晩じんましんが出てくる。
先に出勤する夫の後ろ姿に涙を流す「置いていかないで。一緒にいて」って。でもそんなことは言えなかった。ある日、ボロボロになった私をみて夫が言う。
「もういいんじゃない?頑張ったよ」
翌日、上司に退職したいと伝えた。
その夜、夫に「私、もう私のこと好きじゃない人と一緒にいたくないんだ」と気持ちをこぼした。
「仕事だから好きとか嫌いとか、どうでもいいことだと思うんだけど。そう思うならそうしなよ」
「愛されたい」素直になると楽だった
「好き」とか「嫌い」とか、「愛」とかこの年齢になると素直に言い出せない。でも、根本的に人は「愛されたい」と思っているはずだ。
疲れたときに手を伸ばす先があって、そこにだれかの温もりがあるから、人は毎日生きていける。
大人になればなるほど、社会やモラルを念頭に生きて、凝り固まっていく。
「愛」の素晴らしさや、喜びを素直に受け入れ受け止められないのは悲しいこと。
偉そうにも「素直になってもいいんだよ」と言いたくなってしまう。
だから、私は「愛」を求める
退職後、フリーランスになった。苦手なことはやらない。だって、苦手なことから離れたら得意なことがたくさん見つかったから。
私のことを受け入れて、理解してくれる人たちと毎日過ごす。たくさんの愛を私に注いでくれる人たちと。
そして、そんな人たちが大好きだから、喜んで欲しくて注いでくれる愛に応えるように一生懸命働いている。
こんな風に生きていると「好きなことばっかりでいいね」とか「苦労してないよね」とか、遠回しに冷ややかな言葉を投げられることがある。
でもね、私は修行のような人生を歩みたくないんだ。せっかくこの世に生を受け、限りある時間を過ごすのなら「喜び」と「愛」で満たしていきたい。
だから、これからもずっと愛を求めて生きるよ。そして、人を愛して生きていくよ。
何を言われようと、この生きづらい世界で、生きていくには何よりも必要なことだから。