編集部コラム

仕事を辞めて、私がしたかったこと

「休み」はあるけど「安らぎ」はなかった、そんな20代を過ごし会社を辞めた時、最初にしたことは「自分に似合う茶色」を探しに行くことでした。

●編集部コラム

会社を辞めて作った「やりたいことリスト」

昨年の秋、新卒から8年半勤めた会社を辞めた。有休中は念願の長期の旅行に出かけ、帰ってきてから数日。やりたいことをリストにまとめた。
多分ほとんど、本当に他愛のないこと。
どっかのカードの溜まっていたポイントの期限がきれるまでに使ってしまおうだとか、観てるふりをして話を合わせた、好きな人の思い出の名作映画を観るだとか。

ウキウキで出かけた海外でスーツケースの窃盗に遭い、多くのものを盗まれた。そのなかに、旅の勢いで買った普段ではつけないような色のリップがある。くるりとしたブラウンで、少し気取った色。
きっと旅先でしか纏わないだろうと思っていたその色は、帰国後、日本に秋が訪れると共に、空前のブームとなっていた。インスタグラムには茶色いリップの女性が溢れ、ふらりと入ったコスメショップの口紅コーナーはブラウンだけが欠品の嵐となっていた。
その時にはもうわたしの手元にはイタリア生まれのブラウンリップはなくて、ないとなると無性に欲しくって。

私は秋晴れの祝日に、リップ探しの旅に出た。

5時間に及ぶ「リップ探し」の旅

百貨店に近所の薬局、隣駅まで歩いてその街にしかないコスメショップで何種類もの茶色を唇に乗せる。1日中ティッシュに拭き取られた私の唇はカサカサで、やっぱりイタリアで物を盗まれたことが心から悔やまれて泣きそうにさえなった。

私の口紅探しの旅は5時間にも及んだ。最後に入った店で、1点、オレンジ色のリップを見つけた。唇に当てると、恥ずかしいくらいに自分に似合った。茶色いリップを探していたけれど、迷わず私はそれを買った。家でもう一度つけたらやっぱり似合っていて、私はこの上なく幸せになった。

仕事をしていた時、私の心が芯から安らいでいた時間がどれだけあっただろう。茶色いリップたった1本、自分に本当に似合うものを見つけるために、丁寧に時間を割く。それだけのことが、当たり前なのにできなかった。

昔の私であればおそらく、最初に入った百貨店で、気に入ったのかいらないのか、わからないけどなんとなくで選んだリップを買ってしまっただろう。そうして、すぐに使わなくなって何処かにしまい、いつしかなくしたりなんか。そんなことも、平気でしただろう。

時間の無駄を省いた結果、たくさんの無駄なものを手にしていた

自分と向き合う時間なんて、もったいなくて作らなかった。そうやって時間の無駄を省いた結果、たくさんの無駄なものを買っていた。

でも今は、私だけの色を見つけるための、旅に出られる。旅に出たから知れた。世の中に、これほどまでにたくさんの「茶色」があるということを。
そして、今はまだ、私のためだけの茶色というのは世の中にないから、あんまりみんながつけていなくっても、私のための色はオレンジなんだと気づかされ、オレンジ色のリップを買った。きちんと丁寧に出会ったオレンジはすっごく大切で、誇らしかった。
あぁ。私はこういうことをするために、会社を辞めたのかもしれないと思えた。

洋服、食べ物、お金、運動、薬、音楽、映画、人、恋。

忙しかった(と言い張っていた)私は、どれも「フィーリング」の地引網で大量に摂取してきた。たくさんのものを得たはずなのに、なぜかずっと寂しかったような気もしている。

今。仕事を捨てて、少しだけのお金しか残っていない今。
一つの色を探すためにこれだけの時間をかけている、今。

きっとこれから私は、たくさんの出会ったものを大切にできるかもしれないと思う。今まで出会ってきた全てのものを大切にしなかった罰を受けながら。
そうなりたい。

せっかく大きなものを手放したんだし。でも、できる気がしている。

大学卒業後、芸能事務所のマネージャーとして俳優・アイドル・漫画家や作家などのマネージメントを行う。その後、未経験からフリーライターの道へ。
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