肉親以外の「だれか」、が、私にくれた感受性。
●編集部コラム
「預けられていた私」
30年前から、私は時々「だれか」に預けられていた。フリーのアナウンサーだった母は私を出産後、早くから仕事に復帰し、時に泊まりの出張などもこなしていた。
後に自我が芽生えてから、時々同級生たちに「かわいそう」とか「さびしそう」と言われて、「私はかわいそうでさびしい人間なのか?」と悩むこともあったが、そんな風に他人から指摘されるまで、私は正直、寂しいと思ったことはなかった。なぜなら私が預けられていた人といた時間は本当に楽しく、特別な時間だったからだ。
ベビーシッターの星野さんは、シングルマザーで子供が3人。私が保育園に通う頃にすでに成人していた息子さん2人のうち1人はお医者さん、1人は技術者という今改めて思い返すとなかなかに骨太な家庭環境だった。
その家には大人しか住んでいないので、おもちゃやファミコンなどはなく、熱帯魚の水槽を眺めたり、足の裏をゴリゴリやるマッサージ機の上に乗ったり(子供にはくすぐったく楽しかった)、相撲を見たり週刊誌や新聞を読んだり、あとはなんとなく、ずっと「会話」をしていたような記憶がなぜかある。
自分が大人と会話できる能力などない年齢だったはずなのに、なぜかそうした記憶がある。それはおそらく、星野さんが私を「子供」ではなく「一人の人間」として扱ってくれていたからではないかと思っている。
今の時代ではもうあんまりいないかもしれないけど、星野さんはベビーシッターだけどたばこを吸っていて、口を「ほっ」の形にしてドーナツ型の煙をはいてくれるのがおもしろく、よくやってもらっていた。気が向けば家の近くの歴史博物館に遊びに行き、それから、たまに競馬場にも連れてってくれて、ピクニックをしたりした。
私は星野さんと「会話」をするのがほんとうに楽しかった。
肉親じゃない「だれか」が自分の心を育ててくれる
今でこそ共働きやベビーシッターの利用なども相当にポピュラーになってきており、「子供がかわいそうだ」などという人はほぼいないに等しくなってきた。
それでも、働きながら子育てをする人が罪悪感を抱いたり、うしろめたいような発言をしているのを耳にすることがある。
子供を産んだことのない私が「子供は親がいなくても勝手に育つ」などと無責任なことを言うつもりはない。
ただ、私自身にとっては、両親以外の「だれか」との時間もかけがえのない幼少期の思い出であり、自分が「欠けている」と思ったことはない。むしろ「増えた(広がった、かな。)」という感覚を持っている。両親以外の「だれか」が私という人間の一部になっている。それはとっても心強いものだ。
人は必ず誰かの影響を受けながら育っていく。その登場人物が、幼い頃から多いのは、実にラッキーなことではないか。
何かに感動したり、時に腹が立ったり。いわゆる人間が持つその「感受性」の根源が、親以外の幼少期を共に過ごした誰かである、そう考えるとワクワクする。
星野さんが作ってくれたナポリタンスパゲッティのお皿の底に描かれたイカのイラストや、娘のムーコちゃんの部屋にこっそり嗅ぎに行った香水のにおい。色々なものを味わいながら人生をスタートさせた私が、今日ここにいる。
親と過ごさなかった時間は決して私にとって空白の時間などではなかったのだ。
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