【古谷有美】古谷有美「一人で食べた親子丼。初めての受験、不安ばかりだった」
●女子アナの立ち位置。
「受験シーズン到来!」。そんな季節モノのニュースを紹介するとき。初めて東京で一人で食べた親子丼を思い出します。
あのとき、進路を変えるという決断をしなければ、今、こうしてテレビの世界で仕事をすることはなかったんだろうな、と思いながら。
憧れに手が届くとわかった瞬間
私の大学受験の戦績は1勝1敗。現役で受けた時が1敗目です。「サクラサク」とはいきませんでした。ガラケーでサイトをチェックし、自分の受験番号を入力して画面に「残念ながら・・・」の文字が出た瞬間は、「やっぱり、そうだよね」という気持ちが先に来て、それほどショックを受けた記憶がありません。
妙に不合格に納得していたのは、バタバタで進路変更し、何の予備知識も無いまま、受験に臨んでしまったせい。家から通える地元の北海道大学に行くもんだとずっと考えていたのを、東京の私立に行きたいと決めたのは、受験の数ヶ月前のことでした。
国立大受験に備え、高校3年の秋まで5教科の勉強を続ける中、「滑り止め」で受けるところを選んでいて、「上智大学」という文字が目に飛び込んできたんです。
中学校の頃に憧れていた先生の母校でした。英語の発音がきれいで、優しくて英語を好きにさせてくれた忘れられない先生。
「東京の街に行って上智っていう大学に行ったら、あんな風になれるんだ!」
中学時代に抱いていた夢が実は手を伸ばせば届くところにあったような気がしたんです。とはいえ、地方の一般的なサラリーマンの家庭ですし、そんな贅沢はいけないのではと、しばらく悩んでました。
号泣しながら食べたご飯
だけど、ムクムクと膨らんだ希望がどうしても抑えられなくて、秋も深まった頃、家族で夕飯をリビングで食べている時に、「上智大学を受験してもいいですか」って意を決して打ち明けたんです。
全くそんな素振りも見せていなかったし、「こんなこと言ってもただ親を困らせるだけだ」という罪悪感と「反対されそう」という不安がごっちゃになって、泣きながら伝えたのを覚えています。
「いやだ」とか「やりたくない」とか親に反抗したこともなければ、逆に「こうしたい」とかいう主張もしたことがなかった。初めて自分のやりたいこと・自分の意見を伝えることへの緊張感も、号泣につながったのかもしれません。
突然のことに両親もびっくりだったはず。子どもの言うことに滅多に反対しない両親ですが、きっと私がいないところで、夫婦会議を開いて、仕送りをどうねん出しようか、一人暮らしができるのかなど、話し合ったんだろうなと今になって思います。
飯田橋の「なか卯」
迎えた受験本番。2月のはじめの北海道は猛吹雪で、乗る予定だった飛行機が欠航。父と私は、千歳空港でその文字を見て青ざめました。
「函館からだと飛行機が飛んでいるらしい!」
必死に調べて、特急に飛び乗って4時間かけて函館に移動しながら、航空会社に父が「娘が受験でどうしても乗らなくてはいけないんです」と、懸命に電話をかけてくれていた姿を思い出します。
受験はもちろん、東京に行くのも一人でホテルに泊まるのも初めてです。本命の上智大学の近くにあった飯田橋のビジネスホテルから、受験会場を往復する数日間。キャンパスや周囲を見る余裕なんてほぼゼロでした。
どんなお店があるかもわからないで、迷ってホテルの近くにあった「なか卯」に飛び込みました。夜、一人で初めて外食した親子丼の味は忘れられません。
人生が違っていたかも
「上智大学に行きたい」と言い出せないまま地元に残る選択をしていたら、どんな人生を送っていたのだろうか。この前、小学校まで過ごしていた街に帰ったとき、そんな想像が頭をよぎりました。
その町で別の人生を歩んでいるもう一人の自分がいるんじゃないかと。
ふるさとは大好きな場所です。だけど、外に飛び出すことで世界が広がり、やりたいことがクリアになり、アナウンサーという仕事につながっているのだと思います。
きっと、あのときの志願先を変える、家を出るという決断は、私にとっては最初の、そして大きなターニングポイントだったんだんですね。
さて、迎えた浪人生活、2年目の受験生ライフをどう過ごしたのか。次回のコラムで振り返ります。