金子恵美さん、コンプレックスが私を作った 政治家になるまでの道
30代後半で“与えられたキャリアチェンジ”
2017年の衆議院議員選挙で、私は落選しました。政治家は選挙によって審判を下されます。29歳で新潟市議会議員選挙に当選してからの10年間、議員として実現できたことがある一方、やり遂げられなかった政策もありましたが、私なりに全力で取り組みました。議員をもっと続けたい気持ちの一方で、ひとつの区切りなのだろうとも思えました。それは、“与えられたキャリアチェンジ”だったのだと思います。
37歳で同じ衆院議員だった宮崎謙介と結婚して、息子が生まれました。国会議員としてとにかく時間がない毎日を、夫や親、事務所のスタッフなどいろいろな人の手を借りながらなんとかやっていましたが、頭の中にはずっと、子どもと向き合えていない申し訳なさがありました。現職の議員の方も、皆さんそこには悩まれていると聞いています。落選して、これからは子育てに時間を割こうと気持ちを切り替えました。
その後、テレビコメンテーターを引き受けることになり、メディアを通して発信すると、いろいろなかたちでその反響を肌で感じる日々です。政党に所属している政治家として街頭演説をしても、きっと足を止めることがなかったような方、政治にそれほど関心がなかった方にも、私の発言を聞いていただける。そういう意味でやりがいも感じています。
発言が切り取られてネットのニュースになったり、SNS上で批判されたりすることもあります。本意ではない取り上げられ方をしたとき、大きな問題が生じることではない場合はスルーしますが、あまりにも自分の主張とかけ離れて解釈をされていたり、言葉足らずだったりして、社会全体をミスリードするような時には黙っていられません。また、黙っていることは社会正義に反するという思いから、ブログを通じて、きちんと訂正や反論をすることもあります。
番組制作側の意図を汲もうと、プライベートに関するくだらないことを言って、それが記事になると反省するときもありますが……。番組で共演しているふかわりょうさんが、「良いとことも悪いことも含めて記事になるのは、それだけ注目されているということ。喜ばしいことですよね」とさらりと言ってくれたので、ポジティブに捉えていこうと思っています。
コンプレックスの塊だった幼少期
生まれは新潟県の旧月潟村(新潟市)です。三姉妹の末っ子で、出来の良い姉たちと比べて、私はずっとコンプレックスの塊でした。小さい村の中では、“神童”と言われた長女と、勉強をしなくてもなぜかできてしまうような“天才肌”の次女。私は、習い事でも何でも姉たちとひととおり同じことをやってはみるものの、できない。自信がなくて、人前で話すのも苦手でした。
当時、父が村長をしていたので、「村長さんの娘」として良くも悪くも注目されていたこともあったのだと思います。姉たちと同じ高校に入るのにも、私は必死で受験勉強をしました。得意なことは特別なくても、何事も諦めないでコツコツまじめにやるタイプではあったんです。
ただ、このコンプレックスが私をかたちづくったという部分は大きいと思います。夫の問題が発覚したとき、「許す」という選択に自然と行き着いたのもそうです。
人間には得手不得手いろんな面があって、私も含め、完璧な人なんてどこにもいません。夫は、失敗はしてしまったけれど、それによって全てを失うなんていうことはあってはいけない。私自身、何度も失敗してきましたし、姉たちと違ってできないと思い悩むことばかりでしたから。私は彼のいいところも悪いところもずっと見てきたので、一面だけで彼という人を切ってしまうという選択はありえませんでした。もしも私がコンプレックスを感じずに失敗もなく育ってきたら、夫の1回の失敗も許さなかったかもしれません。
政治家としての原点だった、父の姿
父が村長になったのは、私が3歳の時です。村が新潟市に編入合併するまでの23年間、村長を務めました。元々村長だった祖父が体調を崩したことをきっかけに、父は東京の証券会社を辞めて地元に戻り、36歳で村長になりました。当時の村で若い人が村長を務めるのは大変なことだったと思います。子ども心に父の重責は感じていて、父が間違った選択をしたら村はどうなってしまうのかとすごく不安でもありました。
ただ、父が進めたまちづくりが、通学路や図書館などの資産として残り、地域の人から後々まで「村長さんのおかげ」と喜んでもらえるんです。人が喜ぶ、人を幸せにする仕事をしている父が誇らしかった。それが自然と、いつか父のような仕事をしたいという思いにつながっていきました。
高校卒業後、早稲田大学に進学するため上京しました。母親からはよく「一度、外を見なさい」と言われていました。大好きなふるさとですが、やはりその良さは外に出てなおのことよくわかったと思います。
病に直面した経験。父引退のタイミングで……
大学を卒業する頃にはもう、いつか政治家になりたいという気持ちは固まっていましたが、「民間を見た方がいい」という父のアドバイスで、地元の新潟放送で働き始めました。しかし就職した頃から、元々あった「顎変形症」の症状が悪化、めまいや頭痛、吐き気に襲われ、立っていられない状況になってしまいました。退職して治療に専念することになり、「努力をすれば何とかなる」と思って生きてきた私が、自分の力では何ともできない病という現実にぶつかったんです。
退院後、母が私の知らないうちに新潟県の団体が主催する「きものの女王コンテスト」に応募していました。まだ術後の歯の矯正中で自分では絶対にやろうと思わなかったのですが、そうやって無理やりにでも人前で話す機会を作り出してくれたんですね。「きものの女王」に選ばれたことで少しずつ自信を取り戻し、「ミス日本コンテスト」にも挑戦。関東代表に選ばれました。
新潟市議会議員に立候補したのはそれから数年たった2007年のことです。合併後の新潟市では市議を務めていた父がいよいよ引退するというとき、私にとってはチャレンジのタイミングが来たんですね。
逆風のなか、トップ当選。忘れられない光景
本来であれば、村長だった父の地盤を引き継ぐはずでしたが、村長時代から父をサポートしてくれた地元の後援会への説明よりも先に、私の立候補がスポーツ紙に報じられてしまいました。後援会の方からすれば、「20年以上も父を支えてきたのに何の説明もない」という気持ちになるわけです。マイナスからのスタートとなってしまいました。
厳しい選挙戦でした。当時、政治は男性がするものという意識が今よりも強かったと思います。「20代の女の子に何ができるんだ」と予想以上の反発があり、直接厳しい声もたくさん浴びました。国道で朝晩2時間ずつ街頭演説に立ち始めた私の横に、父は雪が降るなかでものぼりを掲げて一緒に立ち続けてくれました。恰幅のよかった父が日に日に痩せていきました。父は2019年に亡くなりましたが、あの頃のことを思い出すと今でも申し訳なく思います。
そして開票当日。今までに6回選挙を経験し、もちろんそのすべてが大変でしたが、一番忘れられないのは、この初めての選挙の開票結果がわかったタイミングです。みんなが「ワーッ!」と歓声を上げたあのシーンは、今でもしっかりと記憶に残っています。
定数3に候補者10人が立つ激戦。事前の票読みでは完全に不利だった私が、結果的にトップ当選でした。若い女性が立候補したことで、それまであまり選挙に行かなかった若者や女性たちが投票に行ってくださったのだと言われました。いわゆる浮動票が動いたんです。うねるような期待と責任を強く感じました。努力している姿は誰かが見ていてくれる。まさに努力賞としてチャンスをもらえたんだと思いました。そうして、私の政治家としての歩みが始まりました。
「ちょっと様子を見てから」では遅い
若い皆さんは、キャリアについて思い悩むことがあるかもしれません。大それたことは言えないですが、ひとつ思うのは、「やってみたいけど、ちょっと様子を見てから」と言う人は、たぶん一生、様子を見ると思うんです。様子を見ていても何も変わらなくて、やろうと思った時がもうそのタイミング。前のめりでチャレンジして、足らない部分は努力でカバーするくらいの気持ちでいい。やっぱり、チャレンジしなければ成長はないですからね。
女性がライフプランの中でキャリアを考えるとき、もし子どもを産みたいという希望があるなら、そこにはやはりリミットがあります。努力でカバーできない部分もあるので、そこを含めたライフプランを考えた方がいいと思います。私は政治に力を注ぎすぎていたので、これは自分の反省も込めて。
この連載では、政治家としての私の歩みや女性のキャリア、出産・子育て、そして夫とのことについて、お話ししていきたいと思います。