【ふかわりょう】ポルトガルの猫
●ふかわりょうの連載エッセイ「プリズム」06
ポルトガルの猫
自分でも信じられませんでした。自らとっている行動なのに、うまくコントロールできません。もはや制御不能。そうして僕は、ユーラシア大陸の西端、ポルトガルの道をひたすら北上することになりました。
「どうしても、会いたい……」
それは、リスボンのお嬢さんではありません。
* * *
小高い丘の上に、城壁に囲まれた村がありました。そこは、沈黙の音がするという村、モンサラーシュ。ポルトガルの旅の途中に立ち寄ったこの村の小さなホテルは、中庭からレモンの香りが漂い、ベランダからはのどかな田園風景が望めます。時差の影響で夜中に目が覚めてしまった僕は、ホテルを出てみました。白い壁をオレンジ色の街灯が照らす、夜のモンサラーシュは、昼間とは違った幻想的な雰囲気に包まれています。ラバー・ソウル越しの石畳の感触。待っていたのは、厳しい現実でした。
「……閉まってる」
いわゆるオートロックとは違うのですが、ホテルの扉が外から開かなくなっています。さて、どうするか。すっかり途方にくれた僕のそばに現れたのが、彼女だったのです。
「どうした?」
まるで僕を慰めるように、体をすり付けてきます。普段、野良猫に話しかけても逃げられてしまうのに、どうしたことでしょう。誰かが飼っている猫なのか。僕が歩くと、彼女もついてきます。一匹の猫と歩く、夜明け前のモンサラーシュ。教会前の広場で遊んでいると、次第に明るくなってきました。
「じゃぁね」
ホテルの扉は開いたものの、別れが少し、せつなくなっていました。しかし、部屋に入れるわけにいきません。
数時間後、モンサラーシュから向かったのは南端の街、サグレス。今日はそこで大西洋を望むホテルに泊まるつもりでした。しかし、いざユーラシア大陸最果ての岬から海を眺めていたら、心が言うことをきかなくなったのです。
「え、うそでしょ……」
予約していたホテルをキャンセルし、向かったのは今朝出発した場所。
距離にしておよそ300キロ。こんなこと女性にだって、したことありません。猫なんてどこにでもいるのに。どこにでもいる猫なのに。それでも僕は、あのとき一緒に過ごしたあの猫に会いたかったのです。会えるかどうかもわからない。でも、向かわずにはいられない。北上する車を、大西洋に沈む夕陽が、見守っていました。
「どうしたの?!」
小さなホテルの夫人は目を丸くしていました。今朝チェックアウトした男が、その夜チェックインしに来るとは。もう遅い時間だったので、部屋に入るとそのままベッドに倒れこみ、朝を迎えました。
「やっぱり、いないか……」
300キロかけてきたものの、今から行くね、とメールが送れるわけではありません。石畳に揺れるスーツケースの音が響いていました。
「……もしかして、あれは」
石畳にちょこんと座っている猫がいます。あれはまさにあのときの猫。スーツケースが激しく踊り始めました。
「会いに来たよ……」
モンサラーシュの丘から降りる風が緑を揺らしています。教会の鐘が鳴り始めました。
タイトル写真:坂脇卓也