【連載#3:宮司愛海の“不器用”の楽しみ方】報道でも生きる「負けず嫌い」 秋に開く“新たな扉”へ向け、ミクロとマクロの視点で!
昼のニュース担当に「私にできるかな」
今年4月、4年前から担当してきた夜のスポーツニュース番組「S-PARK」を卒業しました。いつも番組を離れるときは後悔でいっぱいですが、今回それはありませんでした。辞めたいわけでもなく、かといって卒業が嬉しいというわけでもないという心境。番組担当中は、ありがたいことに東京五輪に加えて北京五輪まで現地で担当することができ、精いっぱいやり切りましたしね。東京五輪で悔しい思いをしたバドミントンの桃田賢斗選手や、バレーボール、柔道などは次のパリ五輪まで取材したい気持ちもあり、スポーツの分野を深めていきたい思いが無かったわけではないですが、私のキャリアの中では、納得のいく4年間で、区切りもつけられました。
一方でスポーツから離れた直後から報道、それも昼の「FNN Live News days」の月曜と火曜を担当すると知ったときは、「私にできるかな」と戸惑いました。というのも、これまでその枠を担当してきたのは基本的にベテランアナウンサー。しかも昼のニュース番組だけに、原稿がギリギリまで来ない、突発的なことが起きると、短い時間の中で捻出して伝えなければいけないという……。
プロンプターを使うのは「ほぼ初めて」
これまでもスポーツに関するニュースを伝えていたので“変わらないでしょ”と思われがちですが、スポーツ番組と報道番組では大きく違う。「S-PARK」でも、アクシデントがあったり、試合が終わっていなかったりして、慌てることはありましたが、それは比較的レアケース。内容は放送前にたいてい固まっていたのに、報道になると直前、放送中でも内容が確定しないことが多い。
時間などの様々な制約がある中で、原稿を間違えないように読まなければならないというプレッシャーは相当なもの。報道のストレートニュースにはパーフェクトの仕事をして当たり前という緊張感が漂っています。
しかもニュースの解釈は受け手に委ねられているので、完璧にお渡しする必要があるのはもちろん、感情を乗せて話すこともできない。
技術面での課題もあります。私は報道で使っている原稿を画面に映し出し、前を向いたまま話すことができるプロンプターを使うのが、ほぼ初めて。しかもお昼のニュースのプロンプターは手元にあるカメラに映るように原稿を自分で適切な位置に置かないといけない。しかも男性アナと交互に読んでいるので、手元のボタンでスイッチングも自分でしないといけないんですよ。
原稿は基本的にワープロで書かれているのですが、急な差し込み原稿や、訂正が入った場合には手書きで来ます。「うむ、読めない……」みたいなこともままあります。
私のお昼のニュースデビューは、4月の「S-PARK」へ最後に出演した日曜日から数時間後の月曜の昼でした。深夜に番組を終え、いったん家に帰って、8時に出社。朦朧としながらも、とりあえず初日の月曜はなんとか乗り切りました。問題は2日目の火曜……。少し気が緩んだのかミスを連発。急に鉛筆で書かれた原稿や速報などが入ってきたこともあって、間違って読んではいけないのですが、そもそも書いてあることがわからないし――みたいな。あれやこれやで頭の中がパニックになって、つまづきまくったんですよね。実はクレームもたくさん来てしまって「最悪だ」と、かなり落ち込みました。
基本で大事なことだからこそ、難しい!
ニュースを担当することが決まってから、現場の動きを知りたくて記者会見や省庁に行ったり、記者に話を聞いたりもしたんです。その経験からか、原稿を読むときに現場の人の顔が浮かぶようになりました。これがプラスに働くことも多いのですが、その人たちの汗と苦労がにじんだ原稿だと思うと、プレッシャーに感じることもあります。
そんな私は今でも、ひょっとしたら報道は向いていないんじゃないか、と思うことも。
いつも番組冒頭はモニターの前に立ち、途中でニュースを読みながら移動して座るのですが、その直前に足が震えることもあります。原稿が事前に届いていないニュースを番組で取り扱う場合は、色んなことを考えたり、不安になったりしてしまい、気持ちが落ち着いていることは少ないんです。番組自体はたった15分ですが、どの仕事より苦しい15分。原稿をきちっと読むというアナウンサーの基本で1番大事なことだからこそ、難しいのだと痛感しています。
ただ、連載初回でお話ししたように私は負けず嫌い。このことで、周囲やスタッフの方が安心している部分はあるのかも。というのも、ミスしてもあっけらかんとしていたら「大丈夫か?」となるでしょうけど、勝ち気な性分とみんなにバレているので、「宮司は次までには仕上げてくるだろうし、そのうち慣れるでしょ」という目で見てくれている、と勝手に感じています。
ある意味、それ自体もプレッシャーなのですが、やるしかない。ただ現状で昼のニュースは月・火の2日しか担当していないので、たとえば火曜の放送で気になったことがあっても、取り戻せるのは翌週になります。
だから担当ではない日もニュースを見たり、本番のように読む練習をしたりしています。ただ先ほどお話しした、大失敗のデビュー2日目は偶然、先輩の代行で翌日の水曜も担当。この時は負けず嫌いの性質のおかげで「リベンジできる」と思え、大きなミスなく終えることができました。
世の中を斜めから見ることから離れて
私は不器用でもあるので、そつなくこなせないし、パニックになりがち。だからこそ、丁寧に準備をするように心がけています。ふりがなをしっかりふったり、読み間違えそうな箇所に事前に○をつけたり。事前に先回りして準備し、失敗しそうなところを感知することに不器用さはいきていますね。
今回、改めてニュースを担当し、様々な社会問題に触れる中で、「伝えるための技術をさらに磨いていける」「人間として成長することができる」と、やりがいを感じています。一方で、「私にはどれだけ知らないことがあるんだ……」という思いもあり、自分の浅はかさにがっかりする日々も続いています。自分が31年という年月をかけて見てきたものは、世界のたった一部に過ぎなかったのですね。
それでも、この間に東京五輪の延期や、新型コロナウイルスの感染拡大など、自分の力ではいかんともし難いことに直面。何もできず、色んなものを奪われていく経験をした私は自身が変わり始めているという自覚があります。
これまでは世の中を斜めから見て、クールな感じで生きていました。“どうせ自分の気持ちは分かってもらえない”とか、“自分は人とは違う”という思いが、背景にあったのでしょう。人や物事に正面から向き合うことができない――。
それが、色んな経験や思いを経たことで、こうした見方や生き方をやめようと思うようになったのです。
加えて最近、自分の世界が広がりつつある中で、心がけているのはミクロとマクロの視点の使い分け。これまでは自分のミクロの視点でしか物事を見られなかったのですが、人と関わって生きていく仕事をしていると実感したり、入社して月日が経ち、立場の異なる人の痛みも少しずつ理解できるようになり、マクロ、いわば俯瞰した“宇宙からの視点”で見ることも意識するようになりました。遠く離れたところから自分自身を眺めることによって、置かれた状況を客観的に把握するように努めるのです。
たとえば仕事が忙しいし、期待され過ぎると辛いし、勉強することも多過ぎる、というのが私のミクロの視点。一方で、その状況はマクロから見れば、私に期待してくれる人が、自分の時間を使って、私のために準備をしたり、場を用意してくれたりしているということ。さらに、その人たちをサポートする人たちが、その外周にいる――といった感じで、どんどん高い視座から状況を見ることができるようになりました。
そうすることで、「辛い。自分ばかりが大変」と感じたときでも、“支えてくれる人たちのために頑張ればいいじゃん”と思えるようになったわけです。ミクロもマクロも私の気持ちにウソはないから、どちらも大切にしてバランスを取っていければ、と今は考えています。
ミクロとマクロを行き来して…
月日が経つのは早いもので、ニュースを担当するようになって5カ月が経ちました。試行錯誤を繰り返していることに変わりはありませんが、最近ではニュースを自分なりの解釈をしたうえで読む余裕も出てきました。感情を乗せているわけではないですが、辛い話題なら「こんな悲しいことが……」という思いを持って読めるようにも。これが恐らく伝えるということなのかもしれません。ようやくスタート地点に立った感じですね。
報道に携わるようになって私生活も変わりました。イギリスの首相が代わったら、たとえば現地に住む友人のことを思い出して「生活にどんな変化があるだろう」と想像したり、乳児が死亡したニュースに接したら、妹の子どもに同じことが起きたらどうしようと考えてとても悲しくなったり――。すべてのニュースを自分の生活にひもづける形で受け取るようになりました。
季節は「秋」になりました。暑くも寒くもないし、春と違って花粉症もない。どこかもの悲しくて、私が大好きな季節です。ただ、今年は10月から平日夕の「Live News イット!」のメインキャスターを務めるので、秋を楽しむ余裕は持てなさそう。
新しい番組で1からのスタートは年齢的にも体力が心配になりますが、私のキャリアにとってもプラスになる新たな扉が、確実に開いていると感じています。心中に様々な思いが去来すると思いますが、不安と幸福感との間で極端に振れることなく、ミクロとマクロの視点を行き来して、日々を過ごせたらいいなと考えています。