【ふかわりょう】ようこそ、不寛容の国へ
●ふかわりょうの連載エッセイ「プリズム」25
ようこそ、不寛容の国へ
「このボタンを押せば、あなたにとって不快なものは全て消滅します」
もしそんなボタンがあったら、あなたは押しますか?
* * *
昨今、世間を賑わせている広告コピー。かつては、公園にあるダヴィデ像にさえクレームもあったそうですが、不快なものはなくなるべきなのでしょうか。
万人に好かれるものなんてほとんどないし、賛否両論あるのは当たり前。なのに、誰にも否定されず、当たり障りのないものばかりが溢れる世界を目指すのでしょうか。不快な思いを抱いてしまうのはしょうがないけれど、だからと言って、それら全てがなくなるのはどうなのでしょう。
臭いものに蓋をして、綺麗事ばかりが表面化。見えなくなるのはいいけれど、人間の中にあるのは綺麗なものだけではありません。汚いものもあるのに、そういったものを排泄できなくなってしまう。
我々は、雑菌と供に生活しています。善玉も悪玉も必要なのです。個人を傷つけたり、名誉を損ねるものは問題ですが、冗談や洒落の通じない世の中では呼吸困難に陥りかねない。綺麗なものと汚いものが共存してこそ、健全な社会ではないでしょうか。
独裁国家のように、権力によって自由が奪われることはなくなりました。しかし、その一方で、誰もが声を上げられる自由を手に入れた途端、民衆によって言葉や表現が狩られる民主主義の副作用。震災の時もそうでした。「不謹慎だ」と、あらゆるものが吊るし上げられ、社会は萎縮。
そうして間もなく完成する、不寛容の国。潔癖社会。「多様化」「ダイバーシティー」と謳っている割には、自分と違う意見を受け入れようとしない。様々な価値観を認めようとしない、不寛容な社会。寛容が唯一受け入れられないものこそ、この「不寛容」なのです。
* * *
「不快なものが全てなくなる?」
「そうです。ただ、気をつけてください。このボタンはひとつではありません。」
「ひとつじゃない?」
「そう。このボタンを押せるのは、あなただけではないということ。それでもよければ、この不寛容の国に、どうぞお入りください」
不快なものが存在したって、あなたの幸せを脅かすものじゃない。むしろ、なんでも排除する風潮が、やがてあなたを苦しめる。もし排除するなら、あれって不快じゃないですか?と尋ねてくる者を排除するべきでしょう。それは決して害ではない。あなたが幸せなら、放っておけばいいだけのこと。
タイトル写真:坂脇卓也