【古谷有美】大好きなドラマを観て考える、「女の肩書き」 について
●女子アナの立ち位置。
“肩書きを持っていなかったころ”の自分を、今ではとても気に入っている
やっぱり今でも、浪人生だったころの自分をとても気に入っているという話は、前にもしましたよね。
学生でもなく、働いているわけでもない、将来のことはなんとなく考えるけど行く大学さえも決まっていない。身分証は自分が予備校生であることを証明してくれていたけど、いつも宙ぶらりんで、どこにも属していない状態。
「こんな大学を卒業した」「こんな仕事をしてきた」と自分に肩書きや経歴がつくと、もう何もない自分に戻ることができないのかな、なんて思います。ある程度有名な大学を卒業したら、それなりの仕事に就かなくちゃいけない、それなりの仕事をしたら、さらにステップアップして別の肩書きを得なくていけない......。そうやって一生懸命、自分の中に小さなものを積み上げて。
肩書きって本当は、横に広げていけたらとても素敵だろうと思います。自分の中の余白の部分を見つけて、面を増やしていくみたいに。でも、どうしても高く積み上げようとしてしまう。自分自身が「自分の肩書き」につぶされてしまいそうになるくらい、重くなっていく。
あの当時はそんなふうに感じていなかったけれど、何の肩書きも持っていなくて、何者でもなかったころの自分が、今ではとても懐かしいのです。
“女の肩書き” について考えさせられた、ある衝撃的なセリフ
つい最近までやっていたTBSテレビ『凪のお暇』が大好きでハマっていました。黒木華さん演じる凪ちゃんという主人公の女の子が、“目立たないように働く会社員・デキるセールスマンの彼女・空気を読みすぎる同僚”......というあらゆる肩書きを捨ててお暇して、本当の自分を見つけていくというお話です。
ドラマの中の話だけど、みんなどこかで凪ちゃんと同じような気持ちを抱いているんじゃないかなって、他人事じゃなかったです。全部ガシャンッ!って捨ててしまいたくなるときもきっとあるし、できたらどんなに楽だろうとも思います。でもたぶん、本当は、覚悟さえあれば、いつでもできることなんですよね。
一方で、この肩書き――背負ってきた重たい荷物――を「よっこらしょ」って降ろしたら、自分自身は清々しても、まわりに「あの人、“降りちゃったんだね」と思われるのが恐かったりもする。何かを決めたいとき、他人の目に映る自分の姿に躊躇してしまう人、たくさんいるんじゃないかなと思いました。
最近観たもう一つのドラマが、アマゾンプライムで配信されている『東京女子図鑑』。水川あさみさん演じる主人公の女の子が、上京してきて仕事も恋も順調にこなして、転職も経験して、それこそいろんな肩書きを得て最終的に結婚も離婚も経験する。女性の人生が、住む街と出会う男性とともに描かれていてとてもおもしろかった。で、このドラマの中で衝撃のセリフに出会ってしまいました。
プライドが高く人をスペックで見てしまう主人公はある時、仕事をしておらず、「自分で稼ぐ!」という強い意志もない、見た目ふんわりの可愛い女の子に大好きな彼氏をとられてしまうんです。傷ついた彼女は、彼の友だちに「男性はどういう女性と結婚したいの?」と聞くんです。
すると返ってきたのは、「なーんもない女」という言葉。もう、深い、深すぎる......。同じようにドラマにはまっていた友だちと盛り上がりました。「なーんもない」の定義はあまりにも複雑で、でも一つ言えるのは、「なーんもない」自分に、わたしたちはもうなれないかもしれないということ。
「何かを持っている人でありたい」と思ったわけでもなく、ただ強くならなきゃいけなかったし、泣いてる暇もなかったし、自分の足で立つしかなかったんだよね。結果、いろんなものを抱え込んで生きている私たちはどうすればいいんだろう……ま、いっか!なんて、お酒をちびちび飲みながら盛り上がりました。
考えれば考えるほど、迷宮入りです(笑)
「なーんもない女」になろうと思って私が今すべてを手放したとしても、それはドラマの中で言われている「なーんもない」とはたぶん全然意味が違うんだろうな。でもよく考えてみれば、今までの人生で「なーんもない」女の子に私は出会ったことがない。そんな人いないんじゃないか?とも思えてきました。「なーんもない女」なんて、もはや男性が抱くユートピアなのではないか?考えれば考えるほど、友だちと二人、迷宮入りしてしまいました(笑)。
「なーんもない女」と「たくさんのものを背負ってしまった私たち」。その違いは何なのか。答えはまだまだ、出せそうにないです。