『全裸監督』によせて とっくに汚れている自分の手をじっと見ること【後編】

Netflixオリジナル作品『全裸監督』は公開直後から、そのセンセーショナルなストーリーと圧倒的スケール感のある映像、豪華キャストで多くの話題を呼びました。しかし、一方では肖像権の問題やジェンダー的な視点から疑問を呈する声もあり、物議を醸しています。問題の核心は何なのか。ライターのヒラギノ游ゴさんが読み解きます。

 

■「海外」と「日本」のVOD(ビデオ・オン・デマンド)の土壌の違い

続いて、海外と日本におけるVODの土壌の違いだ。まずは海外VOD作品をいくつか挙げる。

例えば『セックス・エデュケーション』という作品は、高校生の主人公を通してティーンエイジャーが直面する性にまつわる悩みの数々が描かれる、文字通りの性教育ドラマだ。

単純な学園ドラマではなく、性教育という堅苦しさや気まずさを想起させるテーマを扱いながら、1本の学園ドラマとして確固たる評価を得ており、次シーズンの発表が世界中で熱望されている。

また『13の理由』は、こちらも高校生を主人公として自死や性的被害、銃社会といったヘヴィなテーマを扱う大人気シリーズ。
この作品では、制作スタッフに精神科医やスクールカウンセラー、自死遺族の会のリーダーなどが名を連ね、彼女ら彼らの意見が作品に反映されている。

また毎シーズンの第1話導入部には出演者が視聴者に語りかける形でトリガーワーニング(精神的ショックを受ける可能性のあるコンテンツであることをユーザーに知らせる警告)が挿入され、番組の始めと終わりには必ず番組が開設した相談窓口へのアクセス方法が示される。
コンテンツの性質上起こりうる事態に対する責任の重さを制作陣が十二分に理解し、真摯に対応を表明している好例といえる。

他にも、ゲイたちの眩しい自己表現が観る人をハッピーにする『ル・ポールのドラァグ・レース』や『クィア・アイ』、貧困や教育格差、人種差別といった社会の実情を切り取る『オレンジ・イズ・ニュー・ブラック』など、リアルタイムな時代の感性を反映した社会的意義のある作品は枚挙に暇がない。

いっぽうその頃日本では『全裸監督』である。

参考:Netflixは、やっぱり新しい。「メッセージ性を強くすることはそこまで考えない」作り手が明かした矜持とは

参考記事にあるNetflixの日本オリジナルコンテンツ担当者のコメントに目を通してみると、温度差に拍子抜けする。過去にグローバル展開されたコンテンツを観れば危機感を覚えそうなものだが。

また、Netflixではスタッフ・キャストに「ハラスメント講習」を受ける義務があると語られているが、目を通す限りこれは撮影現場でのハラスメント対策であり、撮影の前段階でおこなわれるべき件の一般女性に対する許可取りについてはやはり触れられていない。

同じく日本制作のAbemaTVでは先日、村西とおるをゲストに招いたスペシャル番組が放送された。番組ではこの記事で述べてきたような諸問題には一切触れられず、"昭和のおもしろエロおじさん"が武勇伝を語るさまが2時間続いた。

番組冒頭から「私の危機察知能力が"村西さんって御輿に乗せてみんなで担いでいい人なのか?"って言ってる」と訴えていたぱいぱいでか美氏が、度重なる村西とおるのセクハラ発言を引きつりながら、煙に巻いて抵抗していたのが可視に耐えなかった。

他にもAbemaTVでは常軌を逸した番組が平然とレギュラー放送されている。
以下は当該番組のある回の放送直前に投稿された告知ツイートだ。

こんな調子なので、この番組に言及しようと思うとたいへんなボリュームになる。別の機会に詳細な言及を求められれば応じる準備があるが、その依頼が来るより先に番組が終了することを願うばかりだ。

また、例えば同局の『Popteenカバーガール戦争』では、『Popteen』誌のモデルである10代の女子生徒が作った料理を男性が品評するコーナーが放送された。どこかで観た覚えのある企画だ。
こういった地上波で脈々と放送されてきた女性蔑視的なコンテンツを観なくて済むからとVODに移行した人も少なくないわけだが、プラットフォームだけ替えて再生産されている。

もちろんAbemaTVの話を「日本のVOD」の話に主語をすり替えるつもりはなく、日本オリジナルのVOD作品では、日本でコンテンツを作ってきた事業者が制作を担うため、旧来的な価値観がそのまま引き継がれる構造があるということだ。

■「主体的な女性」と「痴女ものAV女優」

『全裸監督』に関して意見を求められたとき、多くの人が対話の中で語ったのが「女性の自己主張や自己実現が描かれていて、今の時代にフィットしていると思う」といった旨の賛辞だ。腸が煮えくり返りそうになったが堪えて話を最後まで聞いた。
そして思い至ったことだが、筆者はここに問題の根があると考えている。

そもそも件の一般女性は引退後、幾度となく訴訟を起こして「自分の過去を掘り返してほしくない」と"自己主張"しているわけで、それを無視した制作背景でできた作品の訴える「女性の自己主張」になんの正当性があるのか(さらに言えば彼女が過去の言動を後悔している可能性も十二分にある)、という話で終わってしまうのだが、なぜ男性たちがこのような感想を持つに至ったのかが極めて重要だと感じたのだ。

これらの賛辞は作品内での当該の一般女性の描かれかたに対する評価なわけだが、実際に彼女はAV業界に大きな衝撃を与え、のみならずテレビ番組にも数多く出演し、自身の性に対する積極的スタンスについて語った。
彼女自身が「女性の性の解放」的なニュアンスで語ったところもあっただろう。

ただ、見落としてはならない点がある。
当時の彼女は、すすんで痴態を晒し、卑猥な言葉を口走り、良家の令嬢でありながらポルノスターであるというインモラルな出自も相まって、多くの男性を虜にした。
そう、彼らにとってこの上なく"都合がよかった"のだ。

「自らすすんでエロいことをする女」は、彼らにとって最高だ。大義名分や気遣いの必要なく"エロい目で見て”いいのだから。彼女はちやほやされただろう。それによって彼女も充足感を得ていたかもしれない。男の要望に適応することが何よりの処世術になったことだろう。では、彼女の自己主張や自己実現は、本当に"自己"のものなのか?

すすんで痴態を晒し、卑猥な言葉を口走り、インモラルな出自。こういった属性を持つ当時の彼女を「主体的な女性」として扱おうとする自分の心理にバイアスが働いていないと言い切れるだろうか。前述した当時の彼女の属性は「主体的な女性」ではなく、単に今で言う「痴女ものAV女優」のそれでしかない(このジャンルのラベリング自体がミソジニックである)。

そういった都合のいい存在を取り上げられたくなかったがゆえに、バイアスが働いている側面があるのでは? 作品への賛辞の形を借りた自己弁護の面がなかったか? そしてこうした無自覚のバイアスは、ジェンダーにまつわるあらゆる社会的課題に深く根を張っているように思われるのだ。

「いい奴」と「ミソジニスト」は両立しうる。
多くの人間には程度の差こそあれ他人に気を遣って生きてきた自負がある。自分がわざわざ人を害しているわけがないと。自分が気を許している友人もそうだ。あいつはいい奴なんだから、故意に人を傷つけたりしないと。
ただ、多くの人が"しくじっている自覚すら持てていない"ことがジェンダーにまつわる諸問題に共通するどでかい課題だ。

女性愛者で、アセクシャルでもアロマンティックでもポリアモリーでもない、いわゆる典型的男性には、自分の性と向き合う必要性が生活において生じにくい。
性を理由に害される経験が女性やゲイなどと比べ(少なくとも顕在化している事例においては)圧倒的に少ないため、性にまつわる問題に対する当事者意識・リテラシーが極端に低いのがほとんどだ。

だからあんたは「料理が上手い」と言うべきときに「女子力が高い」と言い、飲み会でサラダを取り分けるのは"気を回すのが好きそうな"女性に任せ、ハイヒール強要への反対運動をしている人に「好きで履いてる人もいるだろ?」と素朴に質問し、ブで始まる呪いの2文字をいとも軽々しく口にしてきた。

権利問題の話をするときは、どうにも被害者の方に感情移入しがちだ。ただ一度振り返って、加害者だったかもしれない可能性に目を向けてみる。
大丈夫だ、誰も大丈夫じゃないから。人間誰しも叩けば埃が出る。まずはとっくに汚れている自分の手をじっと見ることからだ。
筆者もそうした。人一倍汚れている手で書いたこの記事が誰かの何かを手助けすることを切に祈っている。

投げっぱなしはいやなので、ここで述べたようなことと向き合ううえで参考になる、ビギナー向けの推薦図書を以下のリンク先で紹介している。こちらも何かの助けになればうれしい。

https://note.mu/adhdslsd/n/n10399625fef4