【ふかわりょう】潮の香り
●ふかわりょうの連載エッセイ「プリズム」23
潮の香り
まだ星が輝いていました。ドアを閉め、エンジンをかけると、車がブルブルと震えます。エアコンの風があたたまらないうちに、車は南へと向かいました。
「何年振りだろう」
解散が決まってから騒ぐタイプではないと思っていたので、自分でも驚いています。でも、居ても立っても入られなかったのです。
* * *
「じゃぁ、葉山にしよう」
初めて彼女と呼べる存在ができた高二の夏。ふたりで海に行くことになり、電車で向かった横須賀線の逗子駅。ここから歩いても海に行けますが、さらにバスに乗り換えます。細い道を大きなバスが進む海岸沿い。20分ほどで到着した葉山の街は、江ノ島や鎌倉、逗子に比べて穏やかな場所。オフコースの歌詞にも出てきます。長年潮風を浴びた色合いの建物の隙間から、海が見えました。
「じゃぁ、着替えたら出てきてね」
葉山というと一色海岸が有名ですが、高校生のカップルが降りたのは森戸海岸。彼女の住む吉祥寺の丸井でふたりで選んだ水着。大きな浮き輪を膨らませてはしゃぐ、初めての海デート。すっかり日に焼け、クタクタになったふたりを乗せ、バスは夕日に染まる葉山の街を走ります。やがて、自分の運転でも訪れるようになりました。
「ここすごく綺麗だね」
南国風の建物。それは、ファミリー・レストランのデニーズ。海岸沿いに立つそれは、入口こそ椰子の木が並んで南国風ですが、中に入ると窓から広大な海が望め、まるで地中海にでも来たかのような気分。それから度々訪れていましたが、最近はめっきり足を運んでいませんでした。
「え?閉店?」
その知らせが入ったのは、閉店の4日前。近くの逗子渚橋店のデニーズも海沿いで綺麗だったのに、数年前になくなりました。葉山森戸店は、建物の高さから、より眺めがよかったのですが、そこまでなくなってしまうなんて。ラジオを流しながら進む、夜明けの横浜横須賀道路。徐々に空が薄まっていきます。
「着いた……」
オープンの7時前。同じ考えの人たちで溢れているかと思いきや、駐車場は閑散としています。列車の最後を見送る鉄道マニアのように僕は、何度もレンズを向けていました。
「おはようございます!」
店内が明るくなり、女性スタッフが扉を開けます。どこからでも海が眺められますが、窓側に並ぶテーブル席に着きました。
「今日はここなんですね」
おそらく常連であろうタクシー運転手に声を掛ける女性スタッフ。モーニング・メニューを注文し、しばらく朝日に照らされる地中海を眺めていると、あっという間に席は埋まっていきました。
「お待たせしました!」
目玉焼きとベーコンと、パンケーキ。あと3日となったデニーズは、朝から賑やかな音に包まれています。あちこちから聞こえるシャッター音。みんなにとっての思い出の場所は、これからどうなってしまうのか。
「まだ、わからないんです」
そして、日本一美しいデニーズを後にしました。最終日はどのような雰囲気になったのでしょう。潮の香りを浴びながら、 車は、細い道を戻っていきました。
タイトル写真:坂脇卓也