“存在を認める”という連帯の仕方を教えてくれる イラン発ドキュメンタリー 『少女は夜明けに夢を見る』

インターネットでは今日も、目に見えない血が流されている。殴り合いをしているのは「社会をよくしよう」という志を持った人同士であることも多い。同じ方向を見ているはずなのに、わずかな差異に目くじらを立て、傷つけあう。これ以上、無駄な傷を増やさずに連帯することはできないのだろうか。 そんな世界の現状にとって、小さな光になるかもしれない映画を紹介したい。それは日本から7500km離れた、日本よりも「男尊女卑の著しい国」イランのドキュメンタリー映画である。

“まるで女子高”のような少女更生施設

『少女は夜明けに夢を見る(原題:Starless Dream)』は、ドキュメンタリー作家メヘンダート・オスコウイ監督による、イランの少女更生施設を描いたドキュメンタリー映画だ。施設に収容されているのは、強盗や殺人、薬物、売春といった罪で捕らえられた少女たちだという。

実のところ、試写会場に向かう私は憂鬱だった。一面だけを切り取って感情を煽るようなドキュメンタリーだったら嫌だな。あるいは性に関するフラッシュバックが起きるような過激な描写があったらどうしよう。

会場に着いて座席に座り、肩に力を入れ、拳を握り、奥歯を噛み締めた。冒頭まもなくスクリーンに映し出されたのは、拍子抜けするくらい明るいものだった。

真っ白な雪景色の中で楽しそうに雪合戦をする少女たち。容赦なく雪玉をぶつけ合い、カラカラと笑う風景はまるで女子高のそれである。

「この映画は、本当にイランの『更生施設』の話なの?」それが、その瞬間の率直な感想だった。

漂着した“痛み”だらけのアジールで

しかし、その“女子高のような”風景を見て平和ボケしかけるたびに、刺すように別のカットが挟み込まれる。たとえば、少女たちに監督自ら問いかけるインタビューシーンだ。自分の罪状や過去を悪びれず、屈託のない表情で話していたかと思えば、唐突に顔を曇らせる少女たち。そのわずかな変化をカメラは逃さない。
「ここは“痛み”だらけだね」という監督の言葉に、少女のひとりであるソマイエは言う。

四方の壁から染み出るほどよ。もうこれ以上の苦痛は入りきれない

彼女たちの痛みは唐突ではない。可聴域よりもずっと低い音で映画全体に鳴り響き続けている。しかし、観ている者に悲痛な気持ちばかりを与えないのは、「四方の壁から染み出るほどの痛み」が充満した空間が、彼女たちの唯一の拠り所でもあるからだ。

義父や叔父からの性的暴行を受けた少女、父に売春で稼がされ、そのお金を薬に使われた少女。彼女たちにとって、もはや家庭は安息の場所ではない。家庭から逃げ出し、寄る辺ない中で生き延びるために犯罪に手を染め、漂着したこの場所が、彼女たちにとって最初で最後の「居場所」なのだ。

孤独なまま寄り添うことの強さ

遠く離れたイランの更生施設で暮らす少女たち。雪合戦や恋バナ、ピザを食べながら各々の家庭事情や罪について話して盛り上がる祝宴など、“まるで女子高”のシーンと、その根底を流れる深い「痛み」。両方のレイヤーがギア全開で拮抗し、オーバーラップした一方がたまたまスクリーンに映し出されているようなこの映画は、イランの少女更生施設という場所をできる限り真摯かつフラットに伝えてくれていると感じた。

しかし、私がこの映画から受け取った最も大きなメッセージは、「孤独のまま寄り添うことの強さ」である。新年を迎えた祝宴のシーンには、宴に混じらず、部屋の隅にいる少女たちも映し出されている。突如堰を切ったように感情を表出させるルームメイトを抑圧することも、過剰に励ますようなこともしない。ただ、黙って背中をさする。「痛み」という共通項を持っているとは言え、各々の背景は絶対的に異なるはずだ。だから、溶け合うことはない。ただ、各々の存在を認め、寄り添う。「それだけのこと」が彼女たちにとって大きな力になっている。それが画面越しにずっしりと伝わってくる。

この作品の根底には痛みが流れ続けている。ただ孤独のまま立ち、相手の存在を認める彼女たちの姿に、私は真のシスターフッドを見た。

 

文筆家・ライター。「家族と性愛」をメインテーマにしたエッセイや取材記事の執筆が生業。