青春時代、ロックに救われ英国へ。ブレイディみかこをつくった出会い【中】

パンクな文体で腐った政治を撃つ豪速球投手。と思えば、ユーモアと繊細さをマジックのごとくブレンドさせた変化球の人。英国在住のライター、ブレイディみかこさんが放つ言葉の力に勇気づけられた女性たちは多いでしょう。話題の最新作『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)では、英国の公立中学に通う一人息子の葛藤と成長を描きながら、多様性の時代に生きる“ややこしさ”と“奥深さ”を余すことなく伝えてくれます。一時帰国を機に、女性たちへのメッセージも込めて、たっぷり語ってもらいました。 インタビュー第2回目は、保育士で物書きで母親の「ブレイディみかこ」はいかにしてつくられたかについてお届けします。

貧乏が恥ずかしかった

――福岡のお生まれですね。どんな子どもでしたか。

ブレイディみかこ(以下、ブレイディ):気が強かったですね(笑)。とっくみあいのケンカもしましたよ。勉強は全然しなかったけど、試験の要領だけはよかった。

家は土建屋なんですが、貧乏でしたね。周りもそんな感じだったから、中学まではあまり気にならなかった。ところが地元の進学高に入学して、家のことは一切言えなくなりました。お金がなくてパン1つしか買えなくても「ダイエット」なんてウソついて。裕福な家庭の子どもたちには、貧乏のイメージがわかないわけですよ。彼らの幸せな世界を、こんな暗い話題で壊しちゃいけない、と感じていた。

――それは、自分を保つため?

ブレイディ:そうだったと思いますね。恥ずかしかった。なんでこんなに貧乏なんだろう、なんでこんなところに生まれちゃったんだろうって。親がバカだからだと思っていましたよね、ずっと。上の学校に行きたいとか、お金があれば、ああいうこともできた、って気持ちは当然ありましたけど、自分でなんとかしなきゃいけない。

で、バスの定期券を買うために、スーパーのレジ打ちのバイトをやっていたんですが、あるとき学校にばれちゃったんですね。そうしたら担任から叱られた。理由を正直に説明したら「いまどきそんな家庭があるわけない」って。

そこから、本気でグレましたね。授業をさぼり、バンドばっかりの生活になった。英国との出会いはそのころからです。学校で家のことを話せない自分がいて、でも帰宅してブリティッシュ・ロックを聴いたら、労働者階級である自分を誇りに思う人たちがいると知る。会ってみたい、彼らの国に行ってみたいと、あこがれました。

――いつから渡英したのですか。

ブレイディ:高校卒業後の80年代半ばです。行ってみたら、やっぱりすごく気が楽でした。労働者階級の誇りも肌で感じましたけど、何ていうかなあ……あまりちっちゃなことにこだわらない。自分は自分で、好きにしていられる。それが日本と決定的に違った。

で、ビザが切れると帰国して、お金をためてまた出かける、というフーテン暮らしを続けました。男性を追いかけていったこともありましたね、はい(笑)。バブル世代だから、楽天的だったのかもしれません。いまはこんなフラフラしていても、何とかなる、という根拠なき確信を抱いて生きられる時代だった。

その後、アイルランド系の英国人の夫と知りあい、結婚して96年からブライトンに住み始めました。この間、日系企業のアシスタントをしたり、翻訳の仕事をしたり。新聞社で働いたこともありますが、特派員が発信する英国だけが日本に情報として入るとしたら、かなり偏ってしまうなと正直思っていた。駐在員の記者の方々はいつも多忙で、地元のコミュニティに根差して生活しているとは言い難い。そうすると、英国の人々の感覚と報道がずれて行くのは当然です。だからと言って、自分が書こうとか、そんなことは夢にも思ってませんでしたが。

ライターの仕事は、ほんの小遣い稼ぎに始めたことです。それが変わってきたのは音楽雑誌「エレキング」に書くようになってからですね。好きな音楽について書き始めると、政治も社会も、いろいろと自分の言いたいことがわいてきた感じで。

そうこうするうち、2006年に出産し、翌年に保育士見習いを始めるわけです。

――そもそも、また何で保育士に?

ブレイディ:自分の子を産むまでは、子どもなんてケダモノというくらい、好きじゃなかったんですよ。それが、世の中に子どもほど面白いものはない、と大転換が起きた。無料託児所の門をたたいたら、ここの創設者が地元では伝説の幼児教育者だった。息子は彼女に見てもらったのですが、親なら見逃すような成長のあとも、詳細に記録してくれるプロ。平等も自由も大切だ、両方あってしかるべきだという理念の持ち主でした。私の師匠、と呼べる人ですね。

でも当時の保守党の緊縮政策のツケで、託児所はつぶれてしまいます。そこから保育士の仕事をPR誌に書いてほしいとみすず書房から声がかかり、別途、ヤフーニュースでも執筆依頼があって、その記事を集めた本が岩波書店から出た。人文書の世界にデビューみたいな感じですかね。それから今日に至る・・・ほとんど成り行き、ですよね。

――でも、もともとはライター志望だったのですか。

ブレイディ:いやいや、そんなことないですよ。ただ、本を読むこと、文章を書くことは、好きだったのかな。

十代のころは、けっこう小説を読んでいて、特に好きだったのは坂口安吾とオスカー・ワイルド。流行りの作家なんかも、わりと読みましたね。

あと、不良だった高校のとき、白紙で出した答案用紙の裏に、バンドの詞や、大杉栄についてのミニ論文とか、ヒマだから書いてたんです。そうしたら、私の文章を読んだ現代国語の先生が「君は物を書きなさい」と言ってくれて。どの先生からもたらい回しにされていた私の面倒をみる、と言ってくれ、2年生、3年生と担任になってくれた。何度も何度も自宅にも足を運んでくれて、「大学に進んでたくさん本を読んで、たくさん文章を書きなさい」と。

まあ、うっとうしくて勉強もやりたくなかったから、大学には進まなかったんですけど・・・。回り回って、こうして物書きになった。不思議ですよね。

――いろいろな出会いが、いまのブレイディさんをつくってきたのですね。ご本にも、息子さんの友達2人に絶妙なケンカ両成敗が下された話にからめて、小学校の恩師のことが思い出されていました。

ブレイディ:周囲の反対を押し切って、差別を受けていたコミュニティの人と結婚した方です。きっとご自分の経験があったからこそでしょう、彼女は、どの差別がよりいけない、という前に、「人を傷つけることはどんなことでもよくない」と子どもたちに言い聞かせていました。

もう40年ほど前で、半分覚えていたかどうか、くらいの話だったのに、息子の話を聞いてフラッシュバックのように蘇ってきた。子育ての面白さは、そんなところにもありますね。

次回はこちら:ブレイディみかこ 「今ある世界がすべてじゃない。迷いながら探していけばいい」【下】

●ブレイディみかこさん プロフィール
保育士、ライター、コラムニスト。1965年福岡市生まれ、高校卒業後、渡英を重ね、96年からブライトン在住。本文中で紹介した著書のほか、「花の命はノー・フューチャー DELUXE EDITION」(ちくま文庫)、「アナキズム・イン・ザ・UK」(Pヴァイン)、「ヨーロッパ・コーリング」(岩波書店)、「子どもたちの階級闘争」(みすず書房、新潮ドキュメント賞)、「労働者階級の反乱」(光文社新書)などがある。

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』特設サイト

ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』書影

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)

著者:ブレイディみかこ

1965年生まれ。中1のおてんば娘に手を焼きつつ、弁当作りの日々。息抜きは本屋、ミニシアター、美術館、酒場、鍼灸院。文化くらし報道部を主にAERA、be、オピニオン編集部などを経て2017年秋から論説委員
カメラマン。1981年新潟生まれ。大学で社会学を学んだのち、写真の道へ。出版社の写真部勤務を経て2009年からフリーランス活動開始。