“私の40歳”を探して〈vol.3〉 母親は“聖母”なんかじゃない。そのモヤモヤを考える

人生の節目として意識してしまう「40歳」という年齢。これまで、独身・子なしである自身の考えを綴ってきたが、今回は、既婚・子持ち女性にスポットを当てたい。母になった友人たちは皆 “幸せを手に入れた”ようにみえる。だけどもしかしたら、そんな簡単なことじゃなく、母親のイメージと現実とのギャップ、モヤモヤやつらさがあるはずだ。そのリアルな声を聞くことで、気づくことがあるかもしれない。そして、それが子あり女性と子なし女性の分断の問題を、ほぐすきっかけにもなるような気がする。
“私の40歳”を探して〈vol.2〉 恋愛に年齢は関係ないって本当だろうか? “私の40歳”を探して〈vol.1〉 自分以外、みんな母になっていく

子どもを持てば認められる?

本連載のvol.1で、独身子なしであることの不安や孤独について綴ったところ、既婚者や子持ちの女性からも「そのつらさ、わかる」という声をもらい、心強い気持ちになった。しかしそれと同時に「いや、そんなはずがない」と反発したい気持ちもあった。彼女たちは一人で過ごす絶望的に寂しい夜なんかないだろうし、不安な将来を共に支え合い生きていく相手もいる。老後は子どもが面倒を見てくれるから安心だし、何と言っても社会から認められ、歓迎され、守られているではないか、と……。

思えば私も、はっきりと子どもがほしいと思っていた時期もあった。当時、仕事も恋愛も、いろんなことがうまくいかないと感じていた。それで「子どもがいれば」と考えた。一度考え出すと、これこそが、今のつらさすべてを解決する最善策なんじゃないかと思えてきた。しかし、急に「子どもがほしい」と言い出した私に、ある友人は冷静に言った。

「それって、母という肩書きに安心したいだけでしょう」と。

頭に金だらいが降ってきたようだった。グワングワンとその言葉を反芻しながら、もっともだと思った。仕事で認められなくても、何者になれなくても、「母」になればいい。そうすれば、この自分の冴えない人生を塗り替えることができる。つまり、自分の自信のなさを埋めるために、そんな気持ちが湧いたのだ。

それ以降、そこまで明確に「子どもを持ちたい」と思うことはなくなり、そもそもこんなダメな人間が子どもを持てるわけがないという思いが年々強くなっている。情緒不安定でわがままで、自尊心が低くて……。今日まで生きてきて、自分が“難あり”の人間だということは、痛いほどわかっていた。こんなにも自分のことで精一杯な私が、子どもの面倒を見るなんて到底できるはずがない。世の中の母親はみんなちゃんとしている人たちばかりだ。自分はいくら頑張ってもそっち側にはいけないような気がした。

「母性」なんかにまとめられたくない

今回、母の立場の声を聞きたいと思い、私と同じく39歳の女性二人に協力してもらった。

一人目のAさんは、長年の不妊治療を経て昨年に待望の第1子を出産。新規事業を立上げるなど第一線で活躍していたが、不妊治療に専念するため仕事を断念。子どもの保育園入園が決まった現在、復帰の準備中である。

二人目のYさんは、2児の母で出産以前はデザイナーとして活躍していた。夫がマスコミ勤務で不在がちであること、また実家が遠方のため両親を頼れず、一時的に仕事をペースダウンせざるを得なかった。しかし、ようやく下の子が手を離れてきたこともあり、2024年から本格的に仕事を再開した。

「こんなダメな人間が、母親になんかなれるわけがない」と嘆く私に、Yさんは首を振って言った。

「ちゃんとした人が母親になれるわけでも、母親になったからちゃんとするわけでもないと思います。私も相当“難あり”の人間だと自覚があって、最初の子を産んだばかりの頃は、自信を失くしてよく泣いていました。だけどおむつは変えなきゃいけないし、ミルクもあげなきゃいけない。ダメな自分は箱に入れて、川に流すしかなかったんです」

Aさんもそれにうなづく。「この小さくてか弱きものを死なせてはいけないという必死さが、母親のリアルなんだと思います。よくある歌の歌詞のような、子どもがかわいいとか愛しいとか、そういう気持ちの前に、とにかく必死なんですよね」

そんな話を聞いて松田青子さんの育児エッセイ「自分で名付ける」(集英社文庫)にあった「母性」についての話を思い出した。

O(松田さんの子ども)を育てている間に『母性』なるものへのヒントを得たり、これが『母性』や! といった心境に到達したりするのだろうかと密かに期待していたのだが、今のところ、特に手がかりはない。だいたいあらゆることが心配でうわーってなったり、日々進化していく様に感動してうわーってなったり、何かと、うわーってなるこの絶え間のないいろいろな気持ちを、私の気持ちを『母性』にまとめられるって心外だ。知らんやろ、それぞれの人の、それぞれの気持ち。

世でいう「母親」のイメージは、優しくて温かくて、ケアの眼差しに満ち溢れていて、まるで聖母のようだ。そこにはダメさなんかない。でも、実際のところすべての女性が聖母なわけはないし、「母性」という名の聖母像を押し付けられるつらさを感じている、私のような“難あり”人間だっているかもしれない。いや、いるはずだ。私は世の母親に対するステレオタイプなイメージに対して、勝手に自信を失っていただけなのだ。

“子持ちさま” “妊婦さま”に感じるつらさ

選挙前になると各党の候補者がこぞって「子育て!」「教育!」をマニュフェストに掲げることにうんざりしていた。子どものいない人にとっては、大事なこと、必要なことは他にもたくさんあるんだと、いらだつ気持ちすらあった。

ところが、Yさんは怒っていた。「日本全体に、子どもを大切にかわいがるというムードが一切ないと感じます。“子持ち様”とか“妊婦様”という言葉が、まさにそれを表していますよね」

聞けば、ベビーカーでバスに乗れば舌打ちをされ、レストランで子どもが騒いでしまったときには冷ややかな視線を浴び、そのために肩身の狭い思いをしてきたという。「子どもなんてそもそもうるさいし、汚いし、みんなそんなものなのに、なぜ清潔さとかお利口さを当たり前のように求められるのでしょう。もっとおおらかで適当でいた方がお互いハッピーでいられるのに……。本当に子育てしづらいです」

子どものいない私は、その実情に気づけていなかった。「子どものいない人にとって、大事なことは他にもたくさんあるんだ」といらだつ気持ちの裏側には、たぶん社会に疎外されているような寂しさがあったと思う。なぜ社会は子どもや子持ち家庭ばかりに優しいのか。そんなふうに思っていた。しかし、これはそんな単純なことじゃない、のかもしれない。

長く不妊治療をしていたAさんは、どっちの気持ちもよくわかると話す。「以前は私も、通勤電車で妊婦さんに前に立たれたりすると、『私だって疲れているのに……』といら立ったり、妊婦さんや子持ち女性に対して意地悪な気持ちが湧いたりしたことがありました。不妊治療のつらさもあって、余裕がなかったんだと思います。そして逆に子どもを産める人はみんな余裕があるんだろうと思っていました。今思えば、そんなわけはないのに……」

“余裕”と言われて、確かにと思う。おそらく、みんな自分の大変さ、つらさに精一杯で、自分と違う立場の人に対しては思いを巡らせられなくなっている。そしてその裏側にあるのは、「自己責任」という冷たい言葉だ。ケアがほしい、だけどそう言えずに一人耐えることが普通とされるこの社会で、余裕のある人などそうはいないのではないだろうか

両立のためには戦うしかない

今年の4月から子どもを保育園に預けることが決まったAさんは、出産後の仕事復帰の難しさについても話してくれた。

「政府からは、女性活躍だと言って働くことを勧められるし、少子化対策だと言って子どもを産めとも言われる。でも結局、子どもを産んで働ける体制はまだまだ整っていないと感じます。私は運よく保育園に預けることができましたが、全落ちしたという友人もいますし、SNSなどで同じような方を何人も見かけました。そして彼女たちは皆、第一線で活躍していた有能な女性たちです。そんな女性が働くことができないのというのは、社会全体にとっても不利益なはずなのに。2016年に話題になった『保育園落ちた日本死ね!!!』から、現状はまだまだ変わっていないのだなというのが実感です」

Aさんはさらに続ける。「この年齢でこれからもキャリアを築いていくとしたら、それなりの実績を求められるというのは子どもがいてもいなくても一緒です。となると、こちらは子どもを背負って戦場に挑んでいくようなもの。勝ち目なんてないと思いながらも、働きたいなら戦うしかないんだろうなという覚悟でいます」

母となった女性が社会に復帰することが、「戦い」になってしまうのは、やはりその先に思いやりや助け合いが期待できないからだろう。「“子持ち様”の尻拭いにうんざり」という声もよく聞く。出産後、仕事に復帰した同僚を歓迎しながらも、時短勤務や度重なる保育園の呼び出し、急な休みなどによって仕事のしわ寄せを受けるうちに、不満が溜まり、心がすさんでしまうというのもよくわかる。

私の場合は、子持ちで働く女性と自分を比較して、度々落ち込んできた。限られた時間と体力のなかで、仕事も家も休む暇などなく働くなんて本当にすごすぎる。自分は子どもも家庭もないのだから、ちゃんとキャリアを積めるはずだし、もっともっと頑張らなきゃいけないんじゃないか……。そんなふうに自分を攻めてしまうのだ。「女性活躍」という建前の裏側で、全員が悩んでいる。一人ひとりの立場にしっかりとケアの手が差し伸べられていたなら、こんなふうにはなっていないんじゃないだろうか。

39歳は屈折しやすい時期? 分断なんてばからしい

特に、30代後半は、それぞれの立場の違いが顕著に現れやすい時期なのではないかと思う。どうしたって肉体的に子どもを産める確率は落ちていくなか、結婚や出産や仕事において選択を迫られ、ベストかどうかもわからぬままその道を選んでしまったり、本当は進みたかった道に進めなかったりすることもあるだろう。そんななか、心や体が弱ったとき、不当な扱いを受けたとき、自分とは違う立場に対しての意地悪な気持ちがふと湧き起こってしまう。そしてその屈折した感情が、人間関係の溝を深めてしまうこともあるだろう。

「それぞれの選択、立場に分かれて一旦は離れてしまったとしても、また時間が経ったら戻る人間関係もあると思うんです。私も不妊治療中に、勝手にこちらから距離を置いてしまった友人と、母になってから再び仲良く話せるようになりました」
Aさんはいう。

「ただこれは、“子どもができたから言えること” なのかもしれませんね……」
と付け加える彼女は本当に優しいと思う。

「ただでさえ男性優位なこの社会の中で、大変じゃない女性なんていないはず。妊婦も子持ちも、独り身でも、みんな大変。それなのに互いに歪み合うなんて本当にばからしいですよね」

こう話すYさん。だけど……と屈折した私は反発してしまう。助け合いだなんだと言っても、例えば今、震災が起きたとしたら、お二人は家族と逃げるでしょう? 私は独り身で、よるべもなく、置き去りにされるだけです。

そんなぼやきをYさんは遮る。
「何言ってるんですか、一人にしませんよ。一緒に逃げましょうよ」

思わず涙が出そうになった。家庭がある立場の女性が、そんなふうに言ってくれるなんて思ってもみなかった。私もいいかげん、立場の違いに勝手に線引きするのはやめよう。女性の敵は女性じゃない。

「一人にしませんよ。」その言葉を、私はすべての立場の女性に届けたいと思った。
大丈夫。私たち、一人じゃないぞ!

“私の40歳”を探して〈vol.2〉 恋愛に年齢は関係ないって本当だろうか? “私の40歳”を探して〈vol.1〉 自分以外、みんな母になっていく
ライターやエディターとして活動。女性の様々な生き方に関心を持ち、日常の中のセルフケアや美容、ウェルネスをテーマに取材・執筆を続ける。また、ファッションやコスメブランドのコピーライティングなども手がけている。
イラストレーター。見た人のこころがゆるむような、やわらかくのびのびとしたイラストを描いています。趣味はイラストを添えた映画日記をコツコツつけること。
39歳問題