体験談を読む
血がつながっていなくても
「一緒に過ごす時間が愛を育てていく」
川嶋あいさんが養親に開けてもらった「明日への扉」
川嶋あいさん
シンガーソングライターの川嶋あいさんは、自身が特別養子縁組の養子であることを19歳のときに公表しました。以来、多くの取材や講演会などで育ての両親との思い出を語ってきました。活動の根底には「父と母はかけがえのない、本当の家族」という思いがあります。時を重ねて養親と「本当の親子」になっていったという川嶋さん。特別養子縁組を検討しながらも「血がつながっていなくても、家族になれるのかな」という不安を感じている人たちに向けて、メッセージを送ってくれました。
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施設にいるときから「この人たちがわたしのおとうさんとおかあさん!」
川嶋さんが児童養護施設を経て、芸名の元となる「川島家」の養子になったのは、3歳のときでした。施設にいるとき、いつも真っすぐに自分めがけて会いに来てくれる男の人と女の人。「この人がわたしのおとうさんとおかあさんなんだ!」と思っていたといいます。当時から「いつになったらおとうさんおかあさんはわたしをおうちに連れ帰ってくれるんだろう」と感じていたほどで、養子になったときも、違和感なく川島家で暮らすようになったそうです。
ただ、そんな川嶋さんにも、施設から家庭に移ることによるストレスはあったようです。
「自分では全く覚えていないのですが、最初は『施設に帰りたい』と言ってずっと泣きわめいていたそうなんです。母はどうしたらいいのかと悩み、訪れたのが育児相談も受け付けている、近所の歌の教室でした」
体験レッスンで1曲歌ってみたところ、幼い娘はたちまち笑顔になりました。輝くような笑顔を見たお母さんは、川嶋さんに歌を続けさせることを決意します。
「歌の教室に通い始めるまで、泣き叫ぶ私を目にして、母は本当に苦しかったと思います。どうやってこの子を育てていけばいいんだろうって。でもそこでひとりで抱え込まずに周囲に相談して頼ってくれたことで、私に歌を見つけてくれました」
ぶつかり合い、家出もした思春期 偶然知ってしまった出生の事実
優しくておちゃめ、こどものために時間を惜しまず向き合ってくれるお父さんと、豪快で明るい性格のお母さんに見守られ、北九州市の家庭で川嶋さんは成長しました。
特に歌と出合ってからは、お母さんと二人三脚で練習を重ねる日々でした。
「当時の私は、人前で泣きはしなくなったけれどもやっぱりまだまだ引っ込み思案なこどもでした」
4歳のとき、初めての発表会で演歌を歌うことになったときは、恥ずかしくてもじもじしてしまい一節も歌えませんでした。そんな川嶋さんにお母さんは「よくがんばったね」と、満面の笑みで言ってくれたそうです。
豪華な着物の衣装を娘に着せ、うれしそうな笑顔のお母さん。「私が歌うことでこんなに笑顔で幸せそうになってくれるのだったら、この笑顔を見たいから歌を続けようって思ったんです」
ときにはぶつかり合うこともありました。
「母の、私の歌に対しての情熱ってすごくて。私も小学校高学年のころには歌手になりたいと決めていましたが、母はそれを上回るエネルギーで毎日『練習しなさい』と。当時週5回レッスンに行っていたので、やっぱり普通の子のように遊びたいという気持ちもあり、反発して家出したこともありました。小学5年生のときです」
家出先は結局、歌の教室。そこで先生から、お母さんの川嶋さんへの思いを聞かされます。
「『あんなに泣いていた子が、歌うことで笑顔になってくれる。じゃあ、この子は歌を続けさせれば、きっとずっとこれからも笑顔になってくれる』と言っていたって。泣きじゃくりながら聞きました」
もう一度自分の歌にも、こんなに愛してくれる母にも向き合ってみよう。「けんかはめちゃめちゃ言い合いましたが(笑)、家に帰ってごめんねって謝罪して、また二人三脚の日々が始まりました」
このとき、川嶋さんはまだ自分が養子だということを知りませんでした。
突然の真実告知 それでも揺るがなかった母
「その日」は突然やってきました。川嶋さんが中学生のときのことです。お父さんは10歳で亡くなり、お母さんとふたり暮らししていたころでした。
「母に頼まれて家の金庫を開けたとき、私の出生に関する書類を見つけてしまって。『実母』の欄に母とは違う人の名前と生年月日がありました。養子縁組に関する書類だということは、すぐにわかりました」
勢いのまま、「どういうこと」と書類を突きつけました。そのときのお母さんの表情を、川嶋さんはとてもよく覚えているといいます。「今まで見たことないようなすごく悲しい表情でした。母は『実は愛はお父さんとお母さんの本当の子じゃないっちゃんね』と、施設のことや養子縁組のことを話してくれました」
血のつながった「実の親子」ではないことを伝えながらも、同時にお母さんはきっぱりと「でもね、愛はお母さんの本当の娘やけんね」と言いました。
突然の真実告知は、川嶋さんに大きなショックを与えました。
「これだけ愛してくれた人が血のつながりのない他人だったなんて。目の前に、大きな真っ暗な闇が広がるみたいでした」
悲しい、つらい。落ち込む川嶋さんの絶望を覆したのは、やはりお母さんでした。
「告知の翌日からも、母は全く変わらなかったんです。豪快豪傑で、私に愛情をかけてくれる母のままで。そのあまりの変わらなさに、血縁関係に執着している自分が考えていることって、ものすごくくだらなくて無意味なことなんだって、気づき始めました。そのくらい、とてつもない愛情を注いでくれていました」
揺るがないお母さんの愛情に、心が落ち着いていった川嶋さんですが、少しだけ心残りがあるといいます。
「母は成人とか高校入学とか、どこかのタイミングで私に伝えるつもりだったかもしれないですし、もしかしたら一生言わないつもりだったかもしれない。どちらにしても、自分の意図しないところでこどもが知ってしまった母の気持ちが、私には計り知れなくて」
お母さんは川嶋さんがデビュー目前の16歳のときに亡くなりました。
「あのとき、どんな気持ちだったのって、聞いてみたかったですね。」
同じときを過ごすことで、心通わせ家族になっていく
川嶋さんは育ての両親のことを「大好きな本当の家族」といいます。川嶋さんにとって、「家族」とは何でしょう。
「それはもう『時間』だと思います。同じときを過ごして一緒にごはんを食べたり、おしゃべりをしたり、ちょっと遠出して遊びに行ったり。何もしない時間もあるかもしれない。そんな時間を過ごしていくうちに、それぞれの存在が当たり前になっていくんだと思います」
「でも、当たり前って、たぶん一番尊くて幸せなものなのだと思うんですよね」
お父さんは週末には必ず公園や遊園地に遊びに連れて行ってくれたり、トランプに何時間も付き合ってくれたりしました。
お母さんはよく自宅に人を招き、明るく料理を振る舞っていました。
「私はものすごく大切な時間を父と母にもらったから、この人たちが私の本当の父と母なんだって思えたんです」
特別養子縁組は、戸籍上も「本当の親子」になる制度です。血のつながりがないなか、「家族になれるのかな」と不安を抱きながら養親を検討する人も、少なくありません。
「私は、『人と人との出会いの奇跡』って絶対あると思うんです。もちろん相性もあるかもしれませんが、相性を超えてやってくる『奇跡』は、自分が勇気をもって一歩踏み出したときに必ず訪れるものだと、私は思います」
川嶋さんはお母さんを亡くす前後に行っていた路上ライブで、今のレコード会社の人たちと出会いました。「勇気を出してやってみたことの先に、奇跡のようなめぐり合いがあり、その人たちに私はまた救われました。だから、一歩踏み出したことで出会えるめぐり合わせを、ぜひ信じてみてください」
そしてこどもと出会ったら、「大丈夫だよ、大好きだよって、前向きな言葉をたくさんかけてあげてください」と川嶋さんは言います。
「私が両親にそうしてもらったように。そうすれば、きっと家族としての楽しい時間をもっともっと増やしていけると思います」
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