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【グラデセダイ32 / でこ彦】グラデーションな感覚#2「十人十色の共感覚」

「こうあるべき」という押しつけを軽やかにはねのけて、性別も選択肢も自由に選ぼうとしている「グラデ世代」。今回は会社員のでこ彦さんのエッセイ。文字に色がついて見えるという「共感覚」を持っているでこ彦さん。「好き」の言葉に様々な意味が含まれる様に、「共感覚」を持つ人々の感じ方も多種多様だそうで……。

●グラデセダイ32

高校一年生のときに同じクラスだった入江くんは授業中によく窓の外を見ていた。何があるのだろうとその視線を追うが、中庭の芝生が広がるだけで蝶も花も犬も変な形の雲も見当たらない。直接尋ねたときには「いや、何を見ているというわけでは」とはぐらかされて会話は終わった。席替えで離れてしまうまでの約一ヶ月間、僕の視線にも気付かず入江くんは左を向いていた。何があったのだろうか。
見たい、聞きたい、知りたい。
そのことを「ゆかし」という形容詞で表すと古典の授業で習った。黒板に白チョークで書かれた文字は頭の中で入江くんの顔と重なった。
ひと言「好き」といっても、その中身が指し示すもののは十人十色だろう。「甘えたい」とか「ひとつの生物になりたい」とか「やりたい」など。僕にとってはこの「ゆかし」で言い表されるように思った。一緒に何かをする、何かをされたいというよりも、その人の見ている景色を同じように感じたい。
結局入江くんが何を見ていたのかは分からずじまいだった。ただ、中庭に敷かれた岩が「心」の文字に並べられていることを僕は発見した。入江くんも気付いていたら嬉しい。

明治時代に小学校が建築され始めた頃からずっと教室の窓は左側についているらしい。右利きの人の手元に影が生まれないための工夫だという。なので左利きの僕は手元が暗くなり煩わしかった。ハサミ、物差し、彫刻刀や給食のおたまなど右利き本位で作られているものは「そういうものか」と諦めがついたが、「お箸を持つ方が右」という大人の表現は自分の存在が無視されているようで悲しかった。小学一年生の頃に左と右の判別をよく間違えてしまったが、しかしそれはその排他的な表現というよりも当時の黒板に原因があったように思う。
教室の黒板の端には担任の先生が青いチョークで「左」、赤いチョークで「右」と書いていた。
これがいけない。僕にとって「左」は朱色で、「右」は青色なのだ。書いてある内容と色とがちぐはぐなので混乱してしまう。ちなみに「東」はオレンジ色で、「西」は青緑色であるため大学に入るまで日本地図の「東日本」と「西日本」を逆に覚えていた。その点、英語の「left」は赤色系、「right」は青色系だったのですぐに身についた。

こういった文字に色が見えるなど通常の感覚とは別の感覚も引き起こされる現象を「共感覚」と呼び、他に音楽に色や、味に形を感じる人もいるらしい。
大学生のときにテレビで共感覚を取り上げられていて、初めて自分に共感覚があると知った(より正確にいうならば、他の人には色がついていないと知った)。
それまで「3」と「7」が同じオレンジ色系だったせいで「3日」を「7日」と記憶してしまったり、「13ページ」と「17ページ」を混同するのはよくある間違いだと思っていた。それを受けて「全然違うじゃん」と指摘されるたびに「〈全然〉ではないでしょ」と反論してしまっていた。
僕は二つの勘違いをしていた。これは全員が感じている色ではないということと、そして同じ共感覚保持者でも感じる色は人によって異なるということ。

大学生だった当時、ミクシィで検索すると共感覚の人が集まるコミュニティがあった。そこの掲示板では0から9までの数字に見える色を列記していき、全く同じ色の人がいたら友達(マイミク)になろうと書かれてあった。
この色の見え方というのはもちろんインクの色とは異なる。ワードアートで作成された文字に近いようにも思うが、もっと滲み出る色でもある。例えば「青」という文字を見たときに青色を思い浮かべるくらいの結びつきとほのかさで「視」「四」「資」にそれぞれ想起される色が決まっている。

ミクシィの掲示板には100件以上の書き込みがあったが、色の組み合わせが全て一緒の人はひとりもいなかった。それは別にさびしくも嬉しくもない。
ただ、僕が係長を見るとき周りの空気が光り輝いて眩しく見えるが、係長もそうであってほしい。あらまほし。
希望をあらわす「まほし」は現実はそうでないことを間接的に説明している、と古典の授業で習ったのをふと思い出した。
あなかま。

1987年生まれ。会社員。好きな食べ物はいちじくと麻婆豆腐。
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