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特別養子縁組をたくさんある家族の形の一つに

俳優/ダンサー

瀬奈じゅんさん/千田真司さん

俳優の瀬奈じゅんさんとダンサーの千田真司さん夫婦は、2017年に特別養子縁組で生後5日の男の子を迎えました。およそ2年にわたる不妊治療の間、夫婦で対話を重ねて「親になるのに、必ずしも血のつながりがなくてもいい」と思い至り、民間のあっせん事業者を通じて縁を結んだ新生児は現在、5歳に。3人家族として幸せな日々を送っています。「特別養子縁組で親子になることを、たくさんある家族の形の一つとして知ってほしい」と発信を続ける2人に聞きました。

こどもらしさと、大人っぽさと

「もう1人のお母さんが、あなたを産んでくれたんだよ」

「ママのおなかから、生まれたかったな」

「じゃあ、いまから生まれてみようよ!」

瀬奈さんがこどもに生い立ちについてそう語りかけたのは、長男が3歳のときのこと。瀬奈さんが「あぁ生まれる、生まれる」とおどけつつ言ってみると、長男は瀬奈さんのパジャマの中に入っては出る動作を繰り返し、「おぎゃあ、おぎゃあ」と泣いてみせる。そんな遊びのような一連のやり取りを気に入り、一時期は毎日のように続けた。

演じながらの遊びを繰り返すことで、長男のなかで「自分はママから生まれてきた」という気持ちを補い、満たしているのではないか。瀬奈さんと千田さん夫妻は、こどもへの真実告知(生い立ちや生みの親の情報について伝えること)のプロセスのなかで、それが長男にとって意義深い場面になったはずと振り返る。

二人はこどもの成長に合わせ、どう語るかを話し合いながら、生活の中で真実を語ってきた。生みの母の名前や、どこで生まれたか。そして、生まれた病院に迎えに行ったときの夫婦の状況や気持ちなど。いま、3人家族で過ごす時間は、喜びと笑顔に満ちている。やんちゃで大変だけど、すごく面白い。そんな長男は4歳を過ぎると言葉遣いも急に大人っぽくなり、「男同士でしゃべっているんだなと、意識させられるんです」。千田さんは目を細めた。

「一緒に子育てができたら」と感じた出会い

結婚したのは2012年、瀬奈さんが38歳、千田さんが28歳のとき。瀬奈さんが宝塚歌劇団を退団後、初の舞台にバックダンサーとして参加したのが千田さんだった。

一緒にいると、自然な自分でいられる人。トップスターという重圧を背負ってきた瀬奈さんが、気負わずに同じ時を過ごせる人だった。出会ってひと月で、互いに結婚を意識するように。こどもと上手に接する夫の姿を見て、「一緒に子育てができたら楽しいだろう」と感じた。しかし、舞台人である二人は結婚しても、すぐに妊娠に向け取り組むことができなかった。

舞台やコンサートの予定は、数年先まで決まっている。周りのためにも途中降板することになってはいけないと、夫と話し合って瀬奈さんが40歳のときから妊娠を目指すことを決めた。

前もって二人で受けた不妊検査では、特にこれといった問題は見当たらなかった。「不妊治療をしさえすれば、きっとこどもを授かれるはず」。そう考えていた。

苦しむ妻の姿に夫は決意した

最終的に1年半で7回もの体外受精を重ねた。総合病院で2回、そして不妊専門のクリニックに転院して5回。卵子を育てるために打つ注射や服用する薬によって瀬奈さんは体調を崩し、吐き気やむくみが出て、精神的にも参ってしまった。千田さんはほぼ毎回、通院に付き添うなどして支えたが、苦しむ妻の姿に心を痛めた。

「不妊治療中、できるだけ妻のサポートはしていましたが、どうしても女性の方が負担は大きくなります。当時、妻にばかり重い負担がかかっている気がして、もどかしかった。暗いトンネルの中にいるようで、自分を責めてしまいがちな妻の気持ちを何とか軽くしてあげたいと思いました」(千田さん)

特別養子縁組という選択肢を初めて口にしたのは、千田さんの方からだった。ダンススタジオでこどもと接する機会が多く、2014年にこどもの保育にかかわる民間資格を取る過程で、制度について知っていた。「血のつながったこどもや家族じゃなくても、いいんじゃないか」。こどもが大好きな自分のためにつらい思いをしながら妻が不妊治療を頑張ってくれていることを、千田さんもよくわかっていた。そのうえで、意を決し持ちかけたのだった。

見計らったタイミングは、転院先の病院からの帰り道。ただ、そのときの千田さんからの言葉はすぐには瀬奈さんの心に響かなかった。

「あなたとのこどもを授かるために、私はいま頑張っているのに!」

「養子」という言葉を聞いて思わず、強い言葉が飛び出した。次も治療を頑張ろうと思っているタイミングで、なぜ諦めさせるようなことを言うんだろう? 悲しさや腹立たしい思いも押し寄せ、聞かなかったことにして不妊治療を続けることにした。

産みたいのか、育てたいのか

一方で、「特別養子縁組」という言葉は瀬奈さんの頭の片隅に残っていた。年下ながら頼りにしてきた夫からの提案。思慮を欠いた言葉をかける人とは思えなかった。いつしか、瀬奈さんの心には自分に対する問いかけが生まれた。「こどもを産みたいのか、育てたいのか。どっち?」

当時、瀬奈さんは、高齢出産でこどもを授かった人のブログを片っ端から読みながら、いろいろなことを考えていた。果たして自分は妊娠できるのか、という答えのない疑問が幾度も頭をよぎった。

「自分の中で、いつの間にか妊娠することがゴールのようになっている――」。そう気付いたのは、夫から特別養子縁組という言葉を聞いてから半年が経ったときのこと。

「家族そろって幸せに生活することが、私にとっては大切なこと。そこに血のつながりがあるか、ないかは関係ない」。自分の本当の願いは、こどもを育てること。そう思い至ったのだった。

インターネットで特別養子縁組について調べてみると、日本には何らかの事情で生みの親と一緒に暮らすことができないこどもが約4万人以上いるという現実があり、特別養子縁組は社会的養護が必要なこどもを家庭に迎え入れる制度であると知った。特別養子縁組でこどもを迎え入れるということは、たった一人であっても乳児院や児童養護施設に暮らすこどもに家庭をつくってあげることにつながるはず。自分にも何かできるのかもしれない、と気付いた。

翌朝、「特別養子縁組について、もう少し詳しく知りたい」と千田さんに伝えてみた。千田さんにとっても提案後、妻を急かさないようにしながらも、ずっと待っていた言葉だった。すぐに特別養子縁組の民間あっせん事業者が主催する養親希望者向けのセミナーの日程を二人で一緒に調べ、参加するようになった。

そこで瀬奈さんと千田さんは、こどもを迎えた家族2組と交流し、驚いたという。「血のつながりがないのに、似ている」。ひとつ屋根の下で暮らし、同じご飯を食べ、同じ時を過ごして笑顔を重ねるなかで、通じ合う家族になっていくのではないか。瀬奈さんはそう思った。それまで不妊治療でずっとふさぎ込んでいたのもあり、久しぶりに心が晴れたと感じたことも、特別養子縁組を前向きに考える後押しとなった。

瀬奈じゅんさん

「やっと会えたね」で始まった縁

二人は話し合った末、不妊治療にゴールを設定する覚悟を決め、最後となる7回目の体外受精が実らなかったとき、不妊治療の終結を決断した。不妊治療を終えてからの3カ月は、ひたすら心と体の回復に努めた。そうするうち、他の仕事も決まるなどもあり、徐々に気持ちが前向きになっていった。

二人はその後、いくつかの民間あっせん事業者のセミナーに足を運んだりホームページで調べたりするうち、考えに共感できる関西の事業者を見つけることに。なぜ特別養子縁組をしたいのか、二人でとことん話し合いながら調査票に書き込んだ。双方の家族にも、特別養子縁組でこどもを迎え入れたいという覚悟を伝えた。書類審査に通った後は家庭調査による自宅訪問を経て、赤ちゃんの受託を待つ「待機」の状態になった。

待機となってから5カ月ほどで、「もうすぐ生まれる赤ちゃんがいます」と民間あっせん事業者から連絡が入った。男の子が誕生したとの知らせを聞き、夫婦そろってその子が産まれた産院に迎えに行った初夏の日の出来事を、瀬奈さんはいまもはっきりと覚えている。

「やっと会えたね」。生まれて5日の赤ちゃんを見て、瀬奈さんは心の中でそう話しかけた。

「『この子だ』という、不思議な感覚。タイミングが少しでも違っていれば、私たちの息子とはならなかったはずです。『なるべくしてなった』家族なのかな。そんな風に縁を感じました」(瀬奈さん)

「不妊治療で息苦しく、悩んでいた年月が報われるような出会いでした。つらい2年間を経ていなければ、いまの息子との縁はなかったわけです。この子に会うためにいままでの経験がある。会うべくして歩んできた道だったのだ、と思えました」(千田さん)

千田真司さん

自らも「背中を押せる」存在に

3人家族となってからは育児記録をつけ、夫婦で息子の日々の成長に目を凝らす日々。家の中は全て、こどものペースで回っている。仕事と育児の両立や、育児で思い通りに行かないことも含めてやりがいを感じているという。育児に携わることを熱望していた千田さんの思いはひとしおだ。

「息子と時間をともにするなかで、体の成長に加えて、最近は心の成長を感じ取ることができています。息子との生活において自分を省みることがたくさんあり、そういった経験が自分たちを親にさせてくれていると感じます」(千田さん)

真実告知は、生後半年ごろから徐々に始めていった。「こどもには出自を知る権利があり、それを奪ってはいけないと思っています」と瀬奈さん。千田さんは「まだ言葉を理解できていない年であるにもかかわらず、親の方が緊張してしまいました。でも、早くから伝えることで、親の側が抵抗なく言えるようになったのは良かったと思います」と振り返る。

特別養子縁組制度について考えを深めるなかで、「こどもが欲しいと思うのは、自分たちのエゴなのではないか」と葛藤を覚えたこともあった。しかし、そうした迷いも受けとめてくれた民間あっせん事業者や、実際にこどもを迎えて話を聞かせてくれた養親の家族との出会いがあり、親戚や瀬奈さんの宝塚時代の先輩といった周囲の理解と後押しもまた、前に進む支えとなった。自分たちも誰かの背中を押すことができたのなら――。当事者として制度についてより多くの人に伝えたいと、2018年には「&family..(アンドファミリー)」を立ち上げ、特別養子縁組に関する周知活動をスタートした。

活動の背景には、特別養子縁組によって家族になったことを隠さず、自分たちの言葉で公表していきたいという思いもあった。

「息子のことに関しても、実際に公表してみたら思っていた以上に皆さん、好意的に受け入れてくれました。いま多様性の時代と言われていますが、特別養子縁組もその一つとして受け入れてもらえたらいいなという思いが強くあります。ただ、特別養子縁組については僕らも調べるまで詳しくは知りませんでしたので、皆さんに少しでも知ってもらえればうれしいと思って発信しています」(千田さん)

「人前に出る仕事をしている私たちが経験を伝えることで、何か力になれればと思っています。不妊治療をしているとやめるタイミングがとても難しいのですが、特別養子縁組という制度が選択肢としてあるということを知っているのと知らないのとでは、捉え方が全く変わってくると思うのです。実際に縁組するかどうかは別として、まずは特別養子縁組という制度を日本中の皆さんに知ってもらえるようにすることが、私の目標です」(瀬奈さん)

特別養子縁組という選択肢を知りえたことで、出口の見えないトンネルに光が差し込んだような心地になれた。そんな経験がいま、二人の活動の原動力となっている。

語るのに勇気が要らない社会に

最近では、高校の家庭科の教科書に「特別養子縁組をした家族」として紹介されるようになり、二人の言葉は若い世代にも届くようになった。

この先、長男が成人して生みの母に会いたいと言ったら、会える環境であってほしいと願っている。また、本人が瀬奈さんと千田さんの活動を知り、戸惑うようであれば夫婦として周知活動は控える心づもりもある。ただ、望むのは、隠したり後ろめたく思ったりする必要のない社会だ。

「いまは特別養子縁組が新しい家族の形に映るかもしれません。いずれは、ベーシックな一つの形として理解されるようになればいい。息子が成長するころには、特別養子縁組が『特別』とは見られない社会であってほしいと願っています」(瀬奈さん)

いま紡いでいる3人の家族の歩みは、夫の千田さんが勇気を出して、妻の瀬奈さんに特別養子縁組の話をしたことから始まった。あえて「勇気」を出さなくても気軽に話せるくらい、皆が特別養子縁組のことを知っていて、自然と話題になるような社会に。瀬奈さんと千田さんは、いつかそんな未来が来ることに期待を込めている。

PROFILE
瀬奈 じゅん(せな・じゅん)/1992年、宝塚歌劇団に入団。2005年、月組男役トップスターに就任。09年の退団後は、舞台やテレビ番組などで幅広く活躍。私生活では、俳優・ダンサーの千田真司さんと結婚。17年に特別養子縁組でこどもを家族に迎える。翌年にその事実を公表するとともに、特別養子縁組の周知活動を開始。
PROFILE
千田 真司(せんだ・しんじ)/ダンサー、コレオグラファー、ダンススタジオFBB主宰。夫婦で日々、仕事と育児を両立させている。2018年、特別養子縁組の周知活動を行うため「&family..」を設立。夫婦の共著に特別養子縁組についての経験を伝える『ちいさな大きなたからもの』(方丈社)がある。
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