【連載#2:宮司愛海の“不器用”の楽しみ方】母の看取り、東京五輪の延期…。“負”の感情に翻弄された1年半

スポーツから報道へ――。30歳を過ぎて転機を迎えたフジテレビアナウンサーの宮司愛海さん。自らを“不器用”と評する宮司さんが、仕事やプライベート、様々な葛藤などを、ありのままの言葉で語ります。今回は最愛の母の病気と、近代五輪史上初の延期になった東京五輪について。お届けするのは毎月第4火曜日です。
【新連載:宮司愛海の“不器用”の楽しみ方】転機を迎える私。ファイティングポーズの行方は…

恥ずかしくて感情を外に出せない私

7月29日に誕生日を迎え、31歳になりました。ただ、今年より29歳から30歳になった昨年の方が印象深いですね。メインキャスターを務めていた東京五輪の開催中でしたし、色々な経験を経ての誕生日でしたから。

今年の誕生日には、インスタグラムに「分かりづらい私のこと、いつもあたたかく受け止めてくださりありがとうございます」と書き込みました。私はうれしかったり、楽しかったりしても、恥ずかしくて感情を外に出せないタイプ。子どもの頃の喜んでいない誕生日の写真を見ながら「根本は変わらないなぁ」と改めて感じて……。そんな私を温かく受け止めてくれる周囲の方々への感謝の思いと、ややこしさからの脱皮をめざしている私自身への戒めの意味で、インスタにそう記しました。

先ほど、色々なことがあった、とお話ししました。2020年に開催予定だった東京五輪・パラリンピックは1年延期となり、仕事面では様々な準備に追われたり、次々に押し寄せる感情に振り回されたり――。一方、プライベートでは、昨年5月に病気の母を福岡の実家で看取りました。

母からの突然のメッセージに“胸騒ぎ”

20年の東京五輪メインキャスターを務めることは決まっていました。ですが、19年末に中国政府が、原因不明の重症肺炎を世界保健機関(WHO)に報告。そう、それが新型コロナウイルス感染症でした。
年が明けてフィギュアスケートの四大陸選手権の取材で韓国に出張していた私は、現地でも感染者が出ているとの報を聞き、不安な気持ちも抱えつつも、その時は五輪の開催については楽観的でした。しかし日を追うごとに状況は悪化していきます。

そんな折に、ふいに私のスマホに母からのメッセージが届きました。
「オリンピック、見たかった」
嫌な予感と不穏な胸騒ぎ。母に慌てて連絡すると「大丈夫よ」と返ってきました。しかし、実はその時点で膵臓がんのため「夏までの命」と余命宣告をされていたのです。母はそれまでにも胃がんや乳がんを患いつつも、寛解していたし、3年前の大手術も乗り越えていました。今度は膵臓がん。祖母も同じ病気で亡くなっています。この先の母の病状と仕事に対する不安が、ない交ぜになって私を襲いました。

コロナをめぐる状況は日本でも深刻になり、在宅勤務が増加。五輪の取材ができなくなり、中止や延期の可能性も囁かれ始めます。母への心配と相まって、その時期は完全に塞ぎ込んでいました。

五輪に向けて私が取材をしてきた、たくさんのアスリートの方々の思いも理解できるし、これまでの私の準備も実を結ぶかどうか分からない。さらに中止や延期になれば、夏までの命と宣告された母が、日本での五輪を見ることは決してないだろう。私が五輪を伝える姿を母には絶対に見てほしいけれど、開催に否定的な人たちの気持ちも十分理解できる……。

決まった五輪延期、そして夏には家族で「思い出づくり」

そして、3月に東京五輪は近代五輪史上初の延期が決定し、翌年夏の開催となりました。4月には東京など7都府県に緊急事態宣言が出され、後に対象は全国に拡大。街から人は消えました。

当時、比較的元気な母の姿を見ると、「このまま治るのでは」という気持ちになるものの、現実には来夏、どうなっているかわからない。人生は自分の意思通りには進まないという“当たり前”を痛感しました。

ただ五輪は中止ではなく、あくまで延期。アスリートの方々はもちろん、大会関係者のみなさんの気持ちが報われる場がなくならなかったことには、安堵しました。
そして、様々な意見がある中、開かれることになった五輪では、私は伝え手として、選手の純粋に頑張る姿をひたむきに報じることに注力しようと思い直しました。

そして本来、五輪があったはずの20年の夏を迎えます。抗がん剤の治療が始まっていた母は、髪の毛が抜け、痩せ始めていました。それでも余命宣告の時期を過ぎ、普通に話せていたので、希望を持ち続けることはできました。
ただ、母に頑張ろうと声を掛けたり、翌年の五輪が見られるかもと鼓舞したりするのは酷な気がしたので、先の話はしなかったように記憶しています。その日に向けて気持ちの準備もし始めていました。

一方、家族で楽しい思い出をつくったのも、その夏の緊急事態宣言が出ていなかった時。結婚式を予定していた妹は「母が元気なうちに」と猛スピードで準備をしてくれ、家族全員で出席することができました。

私と妹と弟を育てるために、父も母も働きづめだった我が家。初の家族旅行もこの時期にしました。父の運転する車で熊本へ。それまで家族全員が揃って会話をすることもあまりなかったので、小恥ずかしさもありながらでしたが――。

福岡の実家に帰っていた昨年5月の朝、母に異変が…

そして迎えた冬。特に年が明けてからの母の状態は、悪化の一途。通院して治療を続けていましたが、歩くのも難しくなり21年の3月、「これ以上、治療はできない」と医師から告げられました。ホスピスに入るか、在宅での介護かの選択を迫られた母は、最期の場所に自宅を選択しました。

そこからは私も五輪への準備をしつつ、時間があれば福岡の実家に帰るようになりました。母からは「忙しいから帰って来なくていい」と言われていましたが、ご飯も食べられなくなり、付きっきりの介護が必要だったし、一緒の時間も過ごしたかった。

一方で、21年夏の開催に向けて動き出していた五輪は、感染が再拡大し、緊急事態宣言やまん延防止等重点措置が出されるたびに“中止論”が高まりを見せていました。公私ともに先が見えない状況の中で、仕事をしているときも得体の知れない不安がずっとまとわりついて……。憂鬱な気分が続いていました。

そして5月。私が福岡の実家に帰っている時でした。朝、目を覚ますと「辛い、痛い」と母の様子がおかしくて。なす術がなく時間だけが過ぎていき、私は母に声をかけ続けました。昼前になると、穏やかな表情を浮かべた母は、ベッドを囲む父や妹、そして私や看護師さんを一人ひとりゆっくりと見つめてまぶたを閉じると、眠るように亡くなりました。
闘病中は長くて辛かったのですが、普段は東京で生活している私が看取れる日に亡くなったというのも、母が最期に私に大切なことを教えてくれようとしたのだと感じています。
もちろん、とても悲しかったのですが、母はそれまで本当に苦しそうだったので、不思議なことに少しほっとした気持ちにもなりました。急に亡くなったわけではなく、向き合う時間がたくさんあったからでしょうか。

以来、災害や事件・事故で亡くなった方やご家族の方に対して、思いを馳せるようになりました。ある日、当たり前に居た大切な人が急にいなくなるということは、私たちには想像がつかないほどの葛藤や苦しみがあると思います。

7月の五輪の開幕が迫り、私はいったん母の写真をできるだけ飾らないようにするなどして考えないようにし、準備してきたことを本番で出せる方向に意識を向け始めました。
しかし、直前まで五輪の開催の是非や観客の有無をめぐって議論百出。特殊な状況での開催ですから、様々な立場や意見があり、それぞれが尊重されて当然と感じていました。だからこそ、私たちがすべきなのは五輪を特別視したり、礼賛したりするのではなく、目の前に起こっていることをきちんとお伝えすること。そして、スポットライトが当たるべき人に光が当たるようにしたいと考えていました。

無観客開催の中、始まってからもスポーツの楽しさや厳しさを純粋に誠実に伝えようと努めました。結果として、見ている人が感じられることがあればいい――との思いからです。その意味では、フジテレビで中継した卓球の混合ダブルス決勝は、先行される苦しい展開から逆転勝利まで持っていった金メダル。水谷隼選手と伊藤美誠選手からは、力強いメッセージと心動かされるストーリーを伝えてもらいました。

妹に第1子が誕生 「命はめぐる」

取材者としての私はスポーツの力をずっと、感じ続けてきました。そんな私が五輪が終わってから意識と関心が向いたのは、世の中の人たちが五輪をどう受け止めたのか、ということでした。
コロナ下の五輪は、立場や置かれた環境が変われば、見えている景色がまったく違ったはずです。それを、ひしひしと感じた延期決定前後から閉会までの1年半でした。誰かにとっての光は、他者からは闇にもなり得るし、逆も然り。だから、この先にどんな仕事を担当するにしても、多様な視点というのは何より大事。色んな人や場所に思いを馳せたり、想像したりする大切さを五輪や、その過程で学ばせていただきました。

もし、五輪が20年夏に予定通り開催されて、母が見ることができていたら――と考えることもあります。スポーツを担当するようになってから、私なりの人生設計や未来予想はしていましたから。母の死や五輪の延期が私の人生に与えたインパクトは大きい。これらが無ければ、結婚していたかもしれないし、今、ここにいないかもしれません。

選んだことや起こったことを必然の最適解として受け入れるタイプの私でも、受容し難い衝撃でした。一方で、この経験が無ければ至れなかった境地に現在、いるのも確かなこと。起きたことすべてに向き合い、学び取ろうとする姿勢が大事だということは、間違いなく言えますね。

今年の私の夏休みは8月前半。主に福岡で妹の家族と過ごしました。昨年5月に母が亡くなり、その約1年後のこの夏に生まれた妹の子どもは、私流の輪廻転生の理解では、母が形を変えてこの世に帰ってきたようにしか、思えない。命はめぐる――。
妹の子どもの誕生は本当にありがたく、少しでも力になりたくて、妹の夫と協力しながら食事の作り置きをしたり、妹が授乳している間に哺乳瓶を洗って消毒したりする夏休みでした。

この1年半は、仕事面でも貴重な経験ができましたし、コロナ禍もあり様々な生と死がシンクロする中で、死生観も変わりました。母の病気から妹の子どもの誕生、東京五輪と、運命や奇跡、必然について考えさせられる日々を過ごしたことで、今の私は生きている、ありがたさを痛感できています。

立秋を過ぎたとはいえ厳しい暑さが続いております。みなさん体調にはくれぐれもご留意ください。

【新連載:宮司愛海の“不器用”の楽しみ方】転機を迎える私。ファイティングポーズの行方は…
1991年福岡市生まれ。早稲田大学文化構想学部を卒業し、2015年にフジテレビ入社。18年春から週末のスポーツニュース番組「S-PARK」を担当し、東京五輪ではメインキャスターを務めた。現在は月曜から金曜の「Live News イット!」や「タイプライターズ」などを担当。趣味は落語鑑賞やカラオケ。
ハイボールと阪神タイガースを愛するアラフォーおひとりさま。神戸で生まれ育ち、学生時代は高知、千葉、名古屋と国内を転々……。雑誌で週刊朝日とAERA、新聞では文化部と社会部などを経験し、現在telling,編集部。20年以上の1人暮らしを経て、そろそろ限界を感じています。
1989年東京生まれ、神奈川育ち。写真学校卒業後、出版社カメラマンとして勤務。現在フリーランス。